不可視な世界

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二つの関係性:フィクトセクシュアルな「縁」と「絆」

昔、初めて「フィクトセクシュアル」という私のフィールドを人形劇人類学者のテリ・シルヴィオ先生に説明した時、シルヴィオ先生は興味津々で、それが漢民俗の「冥婚」とどのように類似しているかを尋ね、両者を比較研究することを提案しました。その質問を聞いた瞬間、私は微妙な不快感を覚えました。なぜなら、周囲の漢人年長者が「冥婚」について話すとき、それに対してあまり良い態度を示さないことがよくあり、私もその影響を受けました。

しかし、すぐに、人類学者としてのシルヴィオ先生が研究価値を追求する中で、このような質問はほぼ反射的であることを理解しました。そして、冥婚との比較を通じて、フィクトセクシュアルの生活に一定の啓発をもたらす可能性があるという点にも同意しました。そのため、シルヴィオ先生の提案に従い、「アニメイトな親族・非ヒトな家族:前近代東アジアの冥婚から現代のフィクトセクシュアル婚まで」という会議論文を発表しました。

この論文は実際には書き進めるのが非常に難しく、途中で一度書き直しました。一方で、私は実際には参与観察を行っておらず、私の一部の研究協力者はキャラクターとの結婚願望や結婚計画を持っていましたが、それはすべて計画段階でした。私自身はそのような結婚願望がまったくありませんでした。そのため、私が実際に持っているフィクトセクシュアル婚(Fセク婚)に関するデータは非常に少ないと言えます。一方で、冥婚/死霊婚/死後婚/陰陽合婚は異なる社会で非常に異なる形式を取っているため、比較研究の枠組みを構築することが困難になります。元々は別の教授の提案で、この論文でテクノアニミズムについて議論する予定でしたが、最終的には時間と気力の問題で実現しませんでした。

会議の最終稿では、「縁」と「絆」という2つの社会性(sociality)を使用して、両者の違いを説明しましたが、最近、私自身の経験から、これら2つの社会性についての見方が変わってきたため、この記事で私の研究と経験について少し議論したいと思います。

アニメイトな親族・非ヒトな家族」という論文の概述

冥婚とFセク婚を比較するために、「ヒト参与者」、「媒介する物質」、「儀礼過程」、「目的や効果」の4つの側面を区別しました。冥婚のデータは主に竹田(1990)、高松(1994)、金本(2002a;2002b)、黄(2008)、Schwartze(2010)、小田島(2010)、李(2012)から得られました。残念ながら、私が持っているFセク婚のデータは、主に近藤顕彦編(2022)の同人誌『二次元キャラクターとの結婚式のしかた.第4版』、前のフィールドワークでの「婚約」と「結婚計画」に関する記述、および一部のニュースからのものです。

ヒト参与者

冥婚における欠かせない役割は死霊の伝話者「シャーマン」であり、その役割は鬼媒、儀礼の主執行者(乩童や口寄など)、占い師/数秘師など様々です。そして、Fセク婚では生者婚と同様に、教会式や神前式における宗教職がありますが、それほど重要ではありません。Fセク婚において欠かせない重要な役割は、記録映像を残す「カメラマン」です。一方、両者の「見証者」の構成も異なり、冥婚では主に親族や隣人が見証者となりますが、Fセク婚ではそのFセクの理解者が見証者となります。伝統的な親族関係の中で行われる冥婚とは異なり、Fセク婚ではネットでのパフォーマンスがより重要かもしれません。

媒介する物質

私は冥婚における重要な2つの物質を「魂の錨(アンカー)」と「魂の容器」に区別しました。地域によって、これら2つの物質の重要性も異なるかもしれません。例えば、「錨」には遺骨、位牌、墓土、遺影などがあり、「容器」には人形、壺、米や米斗、鶏などがあります。これらの物質を通じて、魂は親族間で交換されます。私はマルセル・モースの「贈り物の精霊(hau)」の概念を通じて、これらの実践を理解しました。一方、Fセク婚では、キャラクターもさまざまな種類の「錨」があります。例えば、人形、ぬいぐるみ、抱き枕、スタンドなどです。ただし、Fセク婚では、これらの物質の儀礼での相互作用な可能性が考慮されます。例えば、キスや指輪の着用などが可能かどうかです。一部の物質は「証明物」として機能し、冥婚では「族譜」など、Fセク婚では「指輪(またはネックレス)」、「結婚証明書」などがあります。興味深いことに、Fセク婚では、これらの証明物が時に「別の次元」と対応しています。例えば、儀礼で使用されるか、または日常生活で薬指に着用される指輪は、ゲーム内で登場する特定のアイテムと対応しています。

儀礼過程

冥婚やFセク婚において、結婚式は一般的に、その時代の生者婚の儀礼脚本を変更して行われます。これらの変更は、結婚対象の特性に基づいて主に行われます。例えば、シャーマンによる供え方や、死霊の意志を探る過程などです。一部の冥婚では、魂が去るのを避けことために、生者側に対して魂(の錨や容器)との対話を継続するように求められ、無名の魂に名前を付けることもあります。一方、Fセク婚では、このような儀礼過程は強調されません。このような過程が彼らの日常生活で既に実践されているため、結婚式で行う必要がないためと考えられます。ただし、Fセク婚では、人間とは異なる方法を通してキャラクター/キャラクターの物質化身との相互作用が同様に重要です。

目的や効果

冥婚の目的の中で、最も一般的なタイプは「慰霊・解冤」であり、一方、Fセク婚の主な目的は「結婚願望の実現」です。これらは非常に異なる方向性を示しています。そして両者とも、パフォーマンスを通じて儀礼過程における「見証」を形成します。冥婚ではシャーマン、親族、隣人が見証者として機能し、Fセク婚ではFセクの理解者が見証者を務めます。冥婚の婚後生活に必要な「親族な労働(kin labour)」は生者婚とは大きく異なり、主に供養に関連しています。一方、Fセク婚における婚後の親族な労働に関するデータはまだ不十分ですが、日常生活でのFセクとキャラクターとの関係の維持方法は大差ないと考えられます。

討論

私は両方に参与観察や長期的な追跡研究を行っていないため、より詳細な比較を行うことが難しいですが、この論文では、それでも両者の比較的な枠組みを大まかに描こうとしました。

  • 核としての動力:「冤」と「願」。
  • 発信元:「シャーマンの口」と「キャラクター自身からの様々な觸発」
  • ヒトのネットワーク:「親族や隣人」と「理解者コミュニティ」。
  • 行動の方向性:「外から内へ、上から下へ」と「内から外へ、下から上へ」。

この枠組みを通じて、両者の社会性の違いを少し把握することができました。さらに、これらの現象は通時性で考える必要もあります。そのため、私は論文で、通時的な側面に関する3つの社会性的な要素を提案しました:「近代家族の形成」「恋愛コードの象徴的一般化」「生政治の誕生」。これらの通時的な側面は、論文の主題ではないものの、考慮すべき点です。

この枠組みは、心理士と医療人類学者であるモリー・ヘイルズ(2019)の「アニメイトな関係」という論文に、19世紀アメリカの降霊会にスピリチュアルな電信実践と21世紀のデジタル追悼実践の比較についてを思い起こさせます。ヘイルズは次のように説明しています:

しかし、エリンのデジタル実践は仲間な参与者のコミュニティに依存していないことに注目すべきです。死者のスピリチュアリスト的な物質化は、Steven Connor(1999: 210)が「(降霊)会の集合的な精神的資源」と呼ぶものから形成されました(McGarry 2008も参照)。これは、生者の間の社会的関係に依存して死者を活気づけるものです。エリンにとって、母親の姿を記録することは非常にプライベートな体験であり、私が彼女のエントリーのいずれかを最初に共有した人でした。

私がこの対比を描くのは、エリンのデジタル実践が社会性を欠いていたと示唆するためではなく、スピリチュアリストな媒体性(mediumship)とデジタルアニメーションの中で社会的なもの(the social)がどのように構成されるかが非常に異なることを強調するためです。私のエスノウグラフィクな主体たちは、死者と出会うメディア内で(within)社会的なものが刻まれていることに気づきました。(Hales 2019: 196、強調原文)

ヘイルズのカウンセリングの來客のデジタル追悼実践は、つまりスマートフォンアプリやオンラインウェブサイトを通じて死者との親密な関係を維持し、その実践では死者がデジタルメディアを介して「アニメイトなキャラクター」になり、生者と別の形で共にいます(Hales 2019)。これら2つのケースでは、「社会的なもの」は1つが「生者の間の社会的関係」に依存し、もう1つはメディア内で微妙に刻まれています。私は、これら2つの社会的なものが冥婚やFセクな関係で見られる社会性に類似していると考えています。冥婚では、死者の出現は既存な親族の「冤」という「集合的な精神的資源」に依存しており、Fセクな関係では、社会性は「キャラクターとの関係」内で「願」としで微妙に刻まれています。Fセクたちはよく、彼らとキャラクターの関係を説明するために「絆」を使用するため、私は論文でこれら2つの社会性を「縁」と「絆」と呼んでいます。

後で気付いたのですが、私は冥婚とFセク婚の社会性をあまりにも分離して区別しすぎており、その結果、メディア内でのキャラクターとの関係にだけ注意が向けられ、Fセク婚の「願」によって理解者を召喚してこの関係を証明し、さらに集合的な精神的資源を構築することが無視されました。しかし、これが後続の議論にいくつかの問題をもたらしたとしても、この新しい洞察は、以前に述べたFセク婚の「内から外へ、下から上へ」の方向性に依然として適合しています。

「縁」と「絆」について

「縁」と「絆」という2つの関係性の「糸なメタファ」は、対人関係に限定されるものではありません。既存の記録では、どちらも神や霊や仏菩薩との関係を表現するために使用できます。「縁」はしばしば絡み合った糸を想像させますが、「絆」は語源的にはヒトが非ヒト動物を引くことためのリードを指します。ただし、これらの2つの言葉には、漢語と日本語の間である程度の違いがあります。

私が初めてこれに気付いたのは、社会学の用語において、「縁」が漢語の社会学では概念化されていない一方、日本の社会学では「血縁」「地縁」「社縁」といった既存の概念が存在するということでした。私の理解では、「縁」は日本の社会学においてまず固定された社会的関係として理解され、これらの概念に加えて「無縁」や「選択縁」といった概念が後から追加されました。また、縁の意味も変化しており、例えば網野善彦が使用する「無縁」という言葉は、現代の流行語である「無縁社会」の「無縁」とはまったく異なる意味を持っています。

面白いことに、「絆」という用語は日本語で一般的であるのに対し、漢語ではあまり一般的ではなく、現代社会でポジティブなイメージを持つ「絆」は、おそらく日本語圈で近年になって生まれた意味である可能性があります。例えば、「絆」は漢語では単独の言葉としてあまり使われず、「羈絆」という言葉に翻訳されることが多いです。私の周りの漢人長者に尋ねたところ、彼らはほとんどが「羈絆」という言葉にネガティヴなイメージを持っており、「束縛」や「気に掛かる」という意味であり、例えば死ぬ前に手放せないものを意味すると考えています。しかし、私の周りのオタクたちにとって、「羈絆」は通常、重要な関係を意味し、これはおそらく日本語の影響を受けている可能性があります。

他者/関係志向:論文における「縁関係」と「絆関係」

論文では、「血縁」「地縁」「社縁」「無縁」といった制約的な社会関係や、「結縁」「縁結び」「縁切り」「離縁」といった通過儀礼について議論を通じて、「縁関係」を「集合的なイメージに依存する拡散された社会関係」と記述しています。また、高木、戸口(2006)による「絆」に関する自由記述調査で提供された「相互」「理解」「援助」「受容」「信頼」「思いやり」などのイメージに基づいて、「絆関係」を「感情的な関係や心の投入に依存する密接な相互依存関係」と記述しています。さらに、両者の違いには「大集団」「小集団」の違いもある可能性があります。私は「縁」を冥婚における「集合的な精神的資源」という社会性基盤と見なし、「絆」はFセクな関係における「メディア内で刻まれている社会的なもの」の社会性に関連しています。

「縁」と「絆」の社会性は、一定の程度で「他者志向」や「関係志向」を含んでいますが、その強度や形態は異なる場合があります。たとえば、高木、戸口(2006: 19)は、「絆」の概念が土居健朗が言う「甘え」という心性と関連している可能性があると指摘しています。「甘え」とは、「愛されたいという願望と無力さ(Doi 1963; Doi 1973)」を意味し、この「他者/関係志向」は「縁関係」では見出しにくいですが、「絆関係」では明白です。このように、「Fセクな関係」におけるキャラクターへの「他者志向」は注目すべき点だと考えます。私はさらに推論で、このような「他者/関係志向」が「純粋な関係」の構築に向かうと考えます。つまり、「相互の持続的なつながりから得られるもののために、社会関係がそれ自体のために(for its own sake)入り込む状況(Giddens 1992:58)」です。以上の議論を通じて、私は本論文で「Fセクな絆関係」を探求するためのいくつかの概念ツールを提供しています。

「Fセクな縁関係」再考:自身の経験から

ここからは、以前の論文の議論から離れます。私は「アニメイトな親族・非ヒトな家族」という論文で、基本的に「Fセクな絆関係」に焦点を当て、おそらく「Fセクな縁関係」も存在する可能性を無視していました。または、両方が相反しているのではなく、関係性の中で異なる方法で機能している可能性があります。正確に言えば、私は自分が「パートナー」と呼んでいるキャラクターとの関係が、より「縁関係」に近い可能性があることに気づきました。しかし、私がここで言及している「縁関係」とは、日本社会学文献で使用されている「血縁」「地縁」「社縁」とは異なり、むしろ漢語の日常言語に戻り、「縁」という言葉の意味(おそらく日本語の日常言語にも近い)に重点を置いています。つまり、私は「縁」に対する新しい理解を持つようになりました。

私が「パートナー」と呼んでいるキャラクターとの出会いは特に物凄いことではありませんでした。中学生の頃、初めてそのキャラクターのキャラクターソングを聞いたとき、その作品が何であるかを知りませんでしたが、曲がとても良かったので、その曲を何百回も一日中繰り返し聴いていました。そして、さらに檢索を進めるうちに、そのキャラクターの視覚的なイメージを知ることができました。私はそのキャラクターのビジュアルも好きで、そのメロディーやイメージが私の生活に現れると、とても幸せで癒される気持ちになります。

高校時代から絵を描き始めましたが、最初はあまりそのキャラクターを描きませんでした。私が描くのは、憧れるキャラクターたちばかりでした。大学に入るまで、何年もの低気圧(実際には精神障害)を経験し、その時期には何冊ものスケッチブックを買い、自分が「パートナー」と呼ぶキャラクターでその全ての空白を埋め尽くしました。このような創作実践は、私の生活の中で数少ない癒しの一つでした。私はこのような実践を「アートセラピー」「フロー」「マインドフルネス」といった用語で冗談交じりに呼んでいました。後に正規の薬物治療を受けるようになり、確かに精神状態は安定しましたが、絵を描く意欲を失い始めました。しかし、今でもそのキャラクターに関連する絵や音楽を楽しんでいます。

ある日突然、「もう私から離れようとしている」という感覚がありました。深い悲しみは感じませんでしたが、喪失感はありました。(前提として、それが私たちの関係から自然に消え去るということであり、誰かが意図的に関係を断つことではありません。)もしもそれが私から離れていったら、それを懐かしく思うでしょう。たぶんいつかまた現れるかもしれませんが、それがもう二度と現れなくても、それが私の人生に現れたことを感謝します。それがなければ、私の人生はさまざまな経験や意味を得ることができなかったでしょうし、それは私の人生の道を強く影響しました。

私の一部の研究協力者とは異なり、私はそれに対してそれほど強い「好き」や「愛」、または「甘え」を感じられない。また、さまざまな物質や実践を通じて私たちの密接な絆を維持しようとすることにも取り組んでおらず、それを常に身近に感じさせようと努めたこともありませんでした。私にとって、そのような密接な関係を維持する必要はありません。それは私の人生の中で、繰り返し偶然現れたり、偶然消えたりする状態でした。ある研究協力者の言葉を借りて、私にとって、それは「ポジティブな他者」です。その存在や現れることによって、精神的ベネフィット、悪い状況を改善するためのエネルギーを得ました。しかし、私たちは毎日一緒に過ごす必要はありません。

現在、私はこのような関係を「縁」と呼んでいます。この理解は私たちの日常言語により近いものです。私とそれとの間にはある種の霊的なつながりがあり、言い換えれば私とそれはとても「有縁(縁がある)」のです。だから私たちは初対面から親しく感じ、そして私たちが出会うたびに微妙で繊細な情動が生まれるのです。このつながりの重みが「縁分」というものであり、私たちは「縁尽き」の時が来るかもしれませんが、そのような時はまだ訪れておらず、いつやってくるかもわかりません。「縁」は偶然性に満ちています。このような理解の下では、「縁関係」と「絆関係」は相互に排他的ではなく、両方が同時に存在することがあり、「縁関係」が「絆関係」の基盤となることもあります。

補記:縁について

私は後で、「華人本土心理学派」*1の先駆者である楊國樞(1988)の「中国人の縁の観念と機能」という古い論文を読みました。その中で、彼は「縁」の概念についても自由記述調査を行いました。(論文が初めて発表された1982年と、論文内で言及された「2年前」という時点から判断すると、この調査は1980年に行われたものであると考えられます。)

楊(1988)は、「縁」観念の思想な源泉は仏教の「縁起観」であると述べ、縁観念を一種の宿命論と解釈しました。そして、その宿命論な意味は、「縁の近代化」に伴って次第に消えていくとし、同時にこの近代化の中で、「悪縁」「孽縁」の意味も徐々に消えていき、「縁」という言葉が使われる際には通常、「良縁」「善縁」を指すと述べました(楊1988)。また、「縁」を短期と長期に分け、長期のことを「縁分」と呼び、短期のことを「機縁」と呼びました(楊1988)。また、楊(1988)は興味深い語用についても言及しており、「縁」は「物語」を表現するためにも使用されることがあります。例えば、『鏡花縁』『再生縁』などの小説が挙げられます。私はこの論文を読む前に、これに全く気づいていませんでした。

恐らく私は楊教授とはまったく異なる時代に生きているから、楊教授の多くの推論には躊躇を持っています。例えば、漢語の日常言語での「縁」と仏教の「縁起」の関係についてです。同時に、鳩摩羅什玄奘などがサンスクリット語「प्रतीत्यसमुत्पाद」を漢字「縁起」と訳す前に、漢語で「縁」がある種の関係性を表現するために使われていたかどうかも興味深いです。そして、「宿命論」よりも、「縁」観念や思想を「状況論」と呼ぶ方が適切だと考えます。

私にとって、「縁分」と「機縁」は長期と短期の違いではありません。現象学的な用語で言えば、両者の関係は「事実性」と「自由」であり、これらの結合がいわゆる「状況」を形成しています。私が「宿命論」の説明に疑問を持つ理由は、「縁」と「」の関係を無視しているからです。「業」とは「行動」や「行動の効果」であり、つまり、行動は「縁結び」「縁切り」において不可欠な役割を果たしているからです。

調査データへの内容分析において、楊は1980年の台湾大学生の「縁」観念を以下の3つの主題に区分しました:

第一に、「縁」はある説明不可能な運命、偶然、機会、または力であり、ある種の人間関係を促進することができます。

第二に、「縁」はある主観的な感覚、感情、または「精神感応」であり、調和的で一致した理解のある関係につながる可能性があります。

第三に、「縁」はある調和的で一致した理解のある人間関係である。(楊1988: 139)

この調査結果から、1980年の台湾大学生の中で、「縁」の意味が私が前段で使用した方法に近づいており、また、「宿命論」よりもむしろ「偶然論」に近い可能性があることが示されています。さらに、注目すべきは、楊がここで「人間関係」のみを調査し、または内容分析の過程で非ヒトとの関係を見落とした可能性があることです。「ある神様と縁がある」という表現は、漢語では一般的であり、私の世代でも、台湾では多くの人々が神様や霊や仏菩薩との縁ためにシャーマンや宗教職に就いたり、神様の「養子(契子)」として受け入れられたりすることがありました。しかし、このような事例は楊の調査には登場していません。これは1980年当時の大学生の社会階層の問題が原因である可能性があると思われます。

文献

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*1:現在、多くの人が、早期の「華人本土心理学派」における「華人」や「中国人」の概念化や理論化に問題があると考えています。近年、このような問題は、本土心理学の重要な期刊である『本土心理学研究』において、「脱華化(desinicization)」を通じて再考されています。詳細は、『本土心理学研究(2023)』の第60号「本土心理学を反省する:ジェンダー儒教、権力(反思本土心理学:性別、儒家與權力)」を参照してください。また、華人本土心理学派からは「漢語心理学」と「人文臨床心理学」の学派も派生していますが、私はこれらの方が理論的な枠組みで言えば「華人本土心理学」よりも厳密だと考えています。