不可視な世界

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フィクトセクシュアル・アンブレラ:キャラ性愛、二次元性愛、AI性愛、そして科学空想的なステレオタイプ

近年、AIは注目される話題となっています。そのため、私がフィクトセクシュアル(Fセク)について話題にすると、多くの人が次のような質問をします。

Fセクとは、AIパートナーを好む人たちのことですか?

AIパートナーを愛する人は、Fセクに含まれますか?

AI技術の発達によって、Fセクは増加するのでしょうか?

将来、AIパートナーが普及し、人々の日常生活の一部となった場合、Fセクの周縁化は消失し、Fセクも普通の人々と同じになるのでしょうか?

私は、Fセクについて話題にすると、すぐにAIと結びつけられるようなステレオタイプが嫌いです。(うんざりするとも言えます。)なぜなら、このステレオタイプでは、Fセクがある種のかなり科学空想のような存在として見なされているように思えます。これらの人たちは、実際にはFセクの生活を理解しておらず、自分たちのある種の科学空想的な想像をFセクコミュニティに投影しているように見えます。そして、彼らにとっての技術決定論によれば、Fセクはデジタル時代の副産物に過ぎません。

私は以前の講演でも自分の見解を述べました。私にとって、AIパートナーを愛する人は、非対人性愛者やFセクの一部と見なされるかもしれませんが、彼らは私が研究しているFセクのコミュニティとほとんど共通点がありません。私の研究協力者の中には、AIをツールとして使用する人もいますが、彼らの欲望対象はAIパートナーではなく、キャラクターであり、AIは彼らがキャラクターとの関係を維持するのに役立つツールです。また、この科学空想的な研究よりも、私の研究は前近代社会で既に存在していたヒトー非ヒトの関係性に関心を持っています。

この区分は、AIパートナーを欲望や愛着の対象とする人々をFセクから排除することではなく、Fセクが科学空想的なステレオタイプSci-Fi Stereotype)から抜け出し、Fセクコミュニティの差異性と多様性を認識することを試みています。この目的のために、用語のさらなる細分化や精緻化が必要であるように思われます。そして、このような細分化は英語圏で既に行われており、それは「フィクトセクシュアル・アンブレラ(fictosexual umbrella)」と呼ばれています。このようなA-specに類似した認識論、つまり細分化を先に行い、それから包括的な傘の下で説明する方法は、自己啓発にある程度役立つようです。

フィクトセクシュアル・アンブレラ

私は英語圏のFセク言説を詳しくチェックしていないので、Fセク・アンブレラを初めて見たのは、整理された形で、「ファンダム」というプラットフォームに「セクシュアリティ・ウィキ」の「フィクトセクシュアル」ページに記録されていた時でした。それはまだ変化し続けているようで、去年私が見た状況と比べて、Fセク・アンブレラにはいくつかの特別なサブカテゴリが追加されているようです。

日本語圏では、2年前にあるブログでこのアンブレラについて翻訳が行われました。

私も去年、それを漢語と日本語に翻訳しようと試みましたが、私自身の解釈を加えました。

これらのサブカテゴリーを再分類する場合、英語圏で現在使用されている細分化基準は次のようになります。

  1. 欲望の形式に基づくセミフィクトセクシュアル、カイタセクシュアル(Kaitasexual)、エーゴセクシュアル*1など。
  2. メディアに基づく:アニメ/マンガセクシュアル、ゲーモセクシュアル(Gamosexual)、インリアセクシュアル(Inreasexual)など。
  3. キャラ要素に基づく:ネコセクシュアル(Nekosexual)、アヌアフセクシュアル(Anuafsexual)、テラトセクシュアル(Teratosexual)など。
  4. 関係性に基づく:OCセクシュアル(OCsexual)、アリュースセクシュアル(Aliussexual)、サーティセクシュアル(Certissexual)など。

もし、これらのサブカテゴリーを先ほどのウェブページと同じように展開してみると、このような細分化はかなり恣意的に見えるかもしれません*2。しかし、これらの四つの基準に基づいて考えると、この細分化が合理的であり、また、Fセクの生活形式や存在論的な荷物(ontological baggage)の差異性や多様性を示しています。異なる存在論的な荷物の間には、衝突が生じる可能性もあります。この点については、後続の議論で取り上げます。英語圏の言説をすべて受け入れる必要はありませんが、このような細分化は研究、解釈、自己理解に役立つと考えています。

例えば、私は自分をアイデンティファイのためにエーゴセクシュアルを使用しています。また、彼ら自身をそのようなアイデンティファイではないかもしれませんか、私の研究協力者の中には、OCセクシュアルやサーティセクシュアルの特性を示す人もいます。(また、アリュースセクシュアルの特性を示すFセクにも出会いましたが、彼女とのインタビューの機会はありませんでした。)これらの用語は、Fセクが単一の生活形式だけでなく、さまざまな生活形式を持っていることを明確にし、彼らの差異を理解するのに役立ちます。彼らがまったく異なる生活形式を持っていても、彼らは依然として非対人性愛であるかFセクであり、Fセク・アンブレラの中に含まれています。

存在論的な荷物としての「虚構」

「虚構(フィクト)」という言葉について語るとき、私たちはいったい何を語っているのだろうか?もちろん、日常言語では、存在論の厳密な哲学的研究*3のように、何が混同されているかを明確に区別することは不可能です。しかし、私は私たちが無知であるわけではなく、私たちは自分自身と世界を説明するための「存在論的な荷物」を生活形式に基づいて構築し、それを継続的に修正していると考えています。

しかし、言わなきゃいけないことは、私たちの社会には「支配的な存在論モデル」が存在しています。このモデルは、私たちの生活形式や経験した世界と一致しないものの、私たちはそれを信じる傾向があり、そのような言語を使います。特に、生活において「虚構」が些細な意味も持てない人々は、この支配的な存在論をより容易に信じ、他の可能な存在論モデルを無視してしまう傾向があります。

実際には、「虚構」について支配的な言語枠組みに、いくつかの対概念を混同している可能性があります。それは、「虚構的/現実的(fictional/real)」「バーチャル的/実際的(virtual/actual)」「事実的/反事実的(factual/counterfactual)」、そして「真実/嘘(truth/lie)」です。「虚構」という言葉は、語源的には「形作る」「構築する」と関連しており、これは創造との関係や人工物の性質を意味します。一方、「バーチャル的/実際的」という対概念では、「行為」「効果」が中心となります*4。これらの四つの対概念は、実際には全然違い問題設定です。これらの問題設定を混同することは、非常に危険です。

例えば、台湾の支配的な言語枠組みでは、二つの対概念が混同されています。これにより、主流社会が自分たちが議論しているものが何なのかをしばしば明確にすることができません。漢語では、「Fiction」は「虛構」と翻訳され、「Virtual」は「虛擬」と翻訳されますが、最近の二次元性表現規制に関する議論では、「ロリコンマンガ」「ショタマンガ」「やおい」といった本来「虚構」と説明すべき存在が、「バーチャルな児童ポルノ(虛擬兒童色情)」と定義されています。漢字の字義化的な読みから見ると、これは実際には「創造」という行為そのものが、「模擬」というものに還元されているということです。彼らがそれらの存在論的な問題設定の違いを気にしない理由は、それらの問題が彼らにとって本質的に重要でないからだと思います。

私にとって、「バーチャルな恋人(virtual lovers)」は確かに非ヒト的な存在ですが、「虚構的なキャラクター(fictional characters)」と同等ではありません。数年前、英語圏で人気のあるAIパートナーシミュレーター「Replika」を、フィールドワークのような視点で短期間使用したことがあります。実際、私は設定したAIパートナーに対して何の愛着も持つことができませんでした。それは人間のパートナーを模倣しようとする「シミュレーター」のように思えました。それに対する、私の感情は「不気味」というよりもむしろ「皮肉」や「風刺」のようなものかもしれません。私が強調したいのは、それがチャットアプリのような対人関係や相互作用を模倣していることであり、私や私の研究協力者とキャラクターとの間の「創造、知覚、相互作用の行動」とはまったく異なることです。

したがって、私はそれを私の性的/愛着的/親密な対象とは区別するべきだと考えています。AIパートナーを性的/恋愛的/愛着な対象とする人々を、私自身や私の研究協力者とは異なるカテゴリーに分類します。私の目的は、「フィクト」を文字通りに捉えて、AIパートナーを欲望や愛着の対象とする人々を「フィクトセクシュアル」から排除することではなく、私たちの異なる生活形式と存在論的な荷物を明確にすることです。また、「Fセク」に対する科学空想的なステレオタイプを打破することです。すべてのFセクがAIを受け入れなければならないわけではないし、AIは私の専門分野でも研究対象でもありません。

キャラ性愛、二次元性愛、AI性愛について

Fセク・アンブレラの細分化基準には、「メディア」という基準が既に存在しています。したがって、この基準に従って、「AIパートナーを性的/恋愛的/愛着な対象とする人々」を「AI性愛(AIsexual)」と呼ぶのは合理的だと考えています。このような細分化は、研究目的でも、彼らのメディアを通じたAIパートナーとの関係性や生活形式を理解するために役立ちます。メディアミックスの状況では、これはアニメ/マンガセクシュアル、ゲーモセクシュアルなどのサブカテゴリーよりも効果的かもしれません。

私は日本語で既に存在する用語に従い、「AI性愛」を「キャラ性愛(kyarasexual/charactersexual)」と「二次元性愛(nijigensexual)」と区別しました。この区別は「欲望対象」に依存しており、AI性愛はAIパートナーを欲望対象としていますが、キャラ性愛者はAIを相互作用のツールとして使用していても、彼らの欲望対象は「うちのキャラクター」のままです。私は現在ほとんどの研究協力者を「キャラ性愛」というサブカテゴリーに分類できると考えています。彼らはキャラクターとのさまざまな関係性や相互作用の方法を持っていても、彼らの欲望生活は依然としてキャラクターを中心に構築されています。

「キャラ性愛」と「二次元性愛」にはわずかな違いもあります。それは、「二次元性愛」が必ずしもキャラクターを対象とせず、「二次元」を対象とするからです。「二次元」は、ある種の想像力の環境や特定の文脈を指します。それはキャラクターだけで構成されるわけではなく、他の要素、記号、「お約束」なども含まれます*5。この点から、「二次元性愛」に欲望する対象は、「キャラ性愛」の対象よりも抽象的である可能性があります。また、「二次元性愛」の欲望にはより強いエーゴセクシュアル的な性質もあるかもしれません。

この三者の違いは、それぞれ異なる存在論的な荷物に表れています。たとえば、私が出会った少ないAI性愛者の中には、彼らが「この時代に、現実と仮想が相互に浸透し、人間と非人間の違いがますます見分けられなくなっている」というような科学空想的な未来志向(Sci-Fi Futurism)及びピグマリオン的な未来志向を強調することがよくあります*6。しかし、このような世界観は「キャラ性愛」と「二次元性愛」の存在論的な荷物と衝突する可能性があり、さらには不安を引き起こす可能性があります。

キャラ性愛者の生活において、重要な存在論的問題は「キャラクターの同一性」と「キャラ崩壊」であり、そして「キャラクターがいつか人間になる」という主張は、怪談やホラーのように聞こえます。さらに二次元性愛にとってはさらにそうです。どんな感情を持っていようとも、「次元の壁」は二次元性愛の存在論的基盤であり、もし「次元の壁」がなくなれば、二次元性愛も存在しなくなります*7。私のフィールドでは、確かにいくつかのFセクがこのような科学空想的な未来想像に不安を感じていることがありました。

もしかしたら、AI性愛を非対人性愛またはFセク・アンブレラの一部と見なすことができるかもしれません。(当事者や彼らのコミュニティがそう望まないかもしれませんが。)しかし、前述の前提に、これらの異なる生存形式と存在論的基盤を混同してはならず、その差異は認識されなければなりません。生活上でも研究上でもです。「キャラ性愛」「二次元性愛」、そして「AI性愛」は異なる存在と見なされ、異なる問題設定と方法論でアプローチされる必要があります。

 

*1:エーゴセクシュアルは、Aセクコミュニティにおけるある種の特定な性妄想形式を表すために使用されます。通常、Fセクの一部とは見なされませんが、Fセクとある種の親和性があり一部のエーゴセクシュアルにとっては架空の作品も重要です。そのため、ここでは議論の対象に含めます。

*2:私は実際、ある同性愛者がこの分類を任意すぎると考え、彼ら自身の「異性/同性」という堅固な社会的カテゴリーに基づく「性的指向」とは比較できないと考えることが見ています。しかし、この問題はこの記事で議論したいものではなく、この点については参考文献がたくさんあります。例えば:

*3:例えば、松浦(2022)は「虚構/現実」の問題を「存在論的差異」「存在感」「表現論」「事実性」「欲望や感情の真正性」の5つの焦点に区分しています。参照:

私は、このような区分が無意味だと言っているのではありません。実際に、それは研究や自己啓発にとって非常に重要です。ただし、日常言語では、言語の意味は言語ゲームに従って常に変化しているため、ほとんどの場合、私たちは言語を定義し、混乱させずことが不可能です。

*4:詳しい系譜については、以下を参照してください:

*5:松浦(2022)が言う「非対人性愛的な『二次元』へのセクシュアリティ」とは、二次元性愛として理解することができます。そして、この論文では、「二次元」をある「人工環境と化した知識集積にもとづいて制作された人工物」と定義しています。これは、一種の「二次元」の「実在論=リアリズム」の主張と思います。(文献については注釈二を参照)

一方、「キャラクター」について、野澤俊介(2013)も「キャラクター中心的な実在論=リアリズム」という主張を提唱しています。参照:

*6:私はAIパートナーを欲望の対象とする人々について研究を行ったことがありませんので、これは私の個人的な経験に基づくものですが、それが一般的な意見であるとは限りません。

*7:近年、2.5Dに関する議論が多くなっていますが、私はそれがここで言及される存在論的な「次元の壁」とは関係がなく、むしろ演技論や表現論の問題だと考えています。ただし、「2.5D性愛者」という話題が可能であるかもしれませんと思います。

https://x.com/wrmtw/status/1778353224040489176