不可視な世界

非対人性愛・人間と非人間の関係性・神経多様性・クィアな世界制作

家の思考:「居場所」と「家関係」

余所者:一つの懸念は、ファンやシリアスレジャー活動のレベルから見て、通常、ファンライフの離脱段階は、一夫一婦異性婚関係に入ることです。そのような経済共同体の中で、ファンのような過剰な関与や消費を許可する人はほとんどいません。オタクの場合、それは「関係に入る=脱オタク」です。また、前にマークが言及したように、「お見合い」という活動で、オタクというラベルは排除されます。社会の中で、このような性生活を許容する人を見つけるのは難しいです。「個人的な理解」な関係性を築くためには、「実は私は変態趣味を持っています、あなたが私を嫌悪するとしても、それを受け入れなければなりません」と告白(confession)しなければなりません。


DD:そう言えば、私は絶滅するかもしれませんね、なぜなら、私が受け入れられない場合、彼らと親密な関係を築くことはありません(笑)。そして、私の周りには似たようなパターンの人がいるかもしれませんが、彼らは40歳になってもオタクのままです。だから、「関係に入る=脱オタク」のような前提はありません。少なくとも家庭の空間では、彼がオタクでなくても、受け入れ、許容する必要があります。受け入れられない場合、その選択をすることはありません。親密な関係を得ても、あなたの人生の7〜8割は意味を持たなくなります。

 

余所者:こちらの親密な関係は非常にステレオタイプな文脈で話されています。フロイト的な核家族のようなもので、厳しい父と慈愛の母がいて、そして去勢や去勢不全的な子供がいます。しかし、広義の「家」や「宿」について話すと、私の人生の経路から、犬と親密な関係を築く可能性が非常に高いと思います。

 

DD:私は脱構築すぎるかもしれませんが、カセクシスや投影ができるある場所やある人があれば、一人と一つ非人間があり、それが家になる可能性があります。私は心の底から、そのようなステレオタイプな家族を構築することを考えたことがないかもしれません。だから、私にとってそれは問題ではありませんでした。私は受け入れられる家族を見つけるでしょう。それができない場合、私は絶滅して一生を孤独に送ることになるかもしれません。

 

余所者:これはさすが人類学の害毒を受けています(笑)。(台大オタ研「圍爐清談」)

この対談は2年前に行われ、その中で「余所者」という仮名が私を指し、「DD」と「マーク」はオタ研の他のメンバーです。この対談は「オタクの信念」と「オタクのセクシュアリティ」をテーマにしており、当時私と他の数名のメンバーの対談を記録しています。

当時私はある程度「オタク」のアイデンティティを持っていましたが、今では自分をそう呼ぶことはありません。私が対話で触れた「懸念」は、私自身の経験ではなく、台湾のいくつかの古参な研究者が研究中に書いたものです。そして、当時私はすでにある対人パートナーシップに入っていました。

後で、DDはこの部分を修正しました。「私にとって、自分が愛着できる場所があれば、自分と感情的なやり取りができるヒトや非ヒトがいれば、それは『家』だと思います。老人と彼/彼女の猫、または彼/彼女の椅子でさえ、家族と言えるでしょう。」要するに、ある「場所」とある「他者」があれば、「家」となります。この「他者」には、もちろん神々、霊、そして二次元キャラクターも含まれます。このような主張のおかげで、私たちにDDはこの対談でのポジティブな担当として称賛されました。

対談で言及されたマークは、オタ研の参加度が比較的低いメンバーの一人です。(そして異性愛者みたいです。)当時、彼は実家から「お見合い」を要求されたようで、同じ記録の中で、「オタク」がお見合いの「趣味欄」に加算されないことを不満に思っていました。当時、なぜ「オタク」を加点項目にする必要があるのか理解していなかったため、私はマークと口論になりました。

記憶によれば、マークは私が若かった(当時21オ)から、「お見合いに行かなければならない」というプレッシャーがないと言っていました。しかし、マークは私のようなセクマイにとって、実家がそんな贅沢な期待を持つことすらできないことを何も理解していませんでした。ただ、もう家族革命をやめてくれればいいと願っているだけだったのです。

私、DD、そしてマークは、実家の状況だけでなく、階級や人種、学んだ専門もまったく異なります。そして明らかに、私の「家」に対する想像力は、マークよりもむしろDDに近いです。この記事で私は、このような想像力について議論したいと思います。

私は私の実家(family of origin)から話を始め、そして私が今定義している家、そして望んでいる家について話したいと思います。*後で気づいたのですが、私は自分の平凡だけど重い実家経験についてあまりにも多くのスペース(6000語)を使って議論していましたが、それを文献との対話に結び付けることができませんでした。そして、これらの葛藤の中で、私は自分がどのような「家」を望んでいるのかを明確にすることができませんでした。そのため、私はその段落を削除し、理論的な議論だけを残しました。

家の思考

近代的な核家族の再生産モデル

私が議論したいのは、子どもが生まれ、養育され、最終的には実家=生まれた家族(family of origin )から離れ、結婚を通じて新たな家族(family of creation)を再構築し、再び子育てに従事する、近代的な核家族の再生産モデルではありません。このようなモデルは、実存分析家であるロロ・メイ(2009)が「オイディプース神話」に対抗して提唱した「オレステース神話」というものに典型的です。

「存在のための闘い(The Struggle To Be)」という論文では、ロロ・メイとフロイトはともに近親相姦を批判していますが、ロロ・メイは去勢や父殺しよりも母親との「精神的へその緒を切断すること(Cutting the Psychological Umbilical Cord)」をより重視すべきだと考えられる(May 2009)。母親はロロ・メイによって魔女のような存在として描写されています。つまり、オレステースの母親であるクリュタイムネーストラーです。ロロ・メイが描くアメリカ的な家庭では、父親(つまりアガメムノーン)は常に仕事で不在であり、子供たちは母親の「悪毒な愛」によって束縛されます。そして、この依存(精神的へその緒)を断つことで、子供は真の自由と自立を得て、内的な近親相姦から解放され、他者を真に愛することを学ぶことができるとされています(May 2009)。

しかし、私はこのような家族観と自立観は、近代的な核家族の再生産モデルを反映しているに過ぎないと考えています。自立に関しては、私は熊谷晋一郎先生が言う「自立とは依存先を増やすこと」のほうが理解できると思います。(申し訳ありませんが、この言葉の出所は確認しませんでした。友人からの情報です。)依存関係を断つのではなく、むしろ他者との関係を築くことが自立であると。同時に、ベル・フックスの主張にも同意します。つまり、「惡毒な愛」は「愛」ではありません。なぜなら、「惡毒(例えば子供を殴ること)」と「愛」は相互に矛盾する関係であり、傷害は愛を消し去ります。(この主張については、後の記事で議論します。)

「家」と‘「家を作ること」の意味

そして、ここで「家」の意味と、さまざまな「家」の形態について議論したいと思います。

黄克先(2021)の台湾の路上生活者(無家者、Homeless)に関する民族誌『不穏な生活(Precarious Living)』では、先行研究が路上生活者が「実家から追放され」「脆弱な家庭に生まれた」という側面を過度に強調してきたが、「家」が路上生活者にとって多義性を持つことを無視している(75)。黄(2021)は、路上生活者が「家」を持っていないのではなく、一時的で柔軟で移動可能な「擬家関係」を構築していることを強調しました。このようなパートナー関係は簡単に形成され、簡単に断絶される傾向があり、当事者によって「鬥陣(tàu-tīn台湾語で連携、協力を表す言葉)」と呼ばれています(106)。

この本では、黄(2021: 76)が「家」の四層の意味を提案しています:

  • 家族(family)」は、感情的、法的、または血縁的な結びつきによって定義される社会単位であり、通常は生殖や養育の機能が与えられます。
  • 家空間(home)」は、そこに身を置くことで安全や親密さ、所属感を生み出す場所です。
  • 家計(household)」は、共同生活によって生じる労働力再生産、労働分業、消費の経済単位です。
  • 宿家(house)」は、安定した居住を提供する物質的構造です。

もし「家」の意味について詳しく議論したいのであれば、関連する他の用語も挙げることができます。例えば、「家事的(domestic)」「家畜化(domestication)」「家政=経済(economy)」などです。また、黄(2021)が挙げたいくつかの単語には、異なる解釈があるかもしれません。例えば、まどかしとね(2024)は、「ファミリー」の語源である「世帯の奉公人」に戻り、これを「家族」と訳すことは不十分であり、この用語を使って「人工的につくられた『仕事よりも家庭よりも大事な』集合体」を説明します。

もう一方では、漢字の造字原理についても議論することができます。「家」という漢字が形声字なのか会意字なのかについては、ある程度の論争があります。一般的な説明では、「家」と「豚」を関連付けて議論することがよくあります。この説明が成立する前提は、「家」が会意字である必要があるということです。しかし、『說文解字』には、「家、居也。從宀、豭省聲。」とあり、これは作者としての許慎が「豕」を形声字の声符と見なし、必ずしも意味を持つとは限らないということを示しています。ただし、漢字を見ると、「家」には少なくとも「定居の場所」の意味があります。そして、「豚」と関連がある場合、「家畜化」という意味がより強調されるかもしれません。

もう一つのアプローチは「親族」です。 林文玲(2014)の台湾のトランスジェンダー家族に関する民族誌において、彼女はすべての「家を作ること」が異なる秩序(order)に対応していると考えています。 これらの秩序には、自然の秩序(order of nature)、法の秩序(order of law)、共有の秩序(order of sharing)、承認の秩序(order of ratificationが含まれます(林2014: 176)。(林は「家」と「親族」の違いを区別しておらず、ほぼ同等に使用しています。) 

林(2014)は、後の2つが、デヴィッド・シュナイダーが提唱した前の2つに対する、新しい親族理論(New Kinship Theory)人類学者メアリー・ワイズマンテルによって「親族を作ること(Making Kin)」という論文で提唱されたものであることを説明しています。 実際、ワイズマンテルはこの論文でこれら2つの用語について触れていません。 ワイズマンテル(1995)はZumbagua社会のフィールドワークから、「共有(sharing)」と「承認(recognition」が親族関係において重要であると述べていますが、「秩序」という用語は使用していません。

ワイズマンテルは、アメリカでの養子縁組と代理出産論争に関する議論を開始し、養子縁組は生殖関係に対する「補償的親族関係(compensatory kinship)」ではないと強調しました(Weismantel 1995: 688)。その議論では、「共有」は「共食(sharing food)」「飼養(feeding)」に焦点を当て、同じ身体材料を共有することから、親族が精神的、象徴的なだけでなく物質的なつながりを得ると述べています(Weismantel 1995)。一方、「承認」とは、関係性の言語的・歴史的集積に関するものであり、この集積は現在だけでなく、親族の過去と未来も結びつけます(Weismantel 1995)。

そして、これらの言語の使用には、もちろん、介護を受ける者が介護者を親族代名詞として呼ぶことを含んでいます(Weismantel 1995)。したがって、これは異なる社会性における「親であること(parenthood)」「母であること(motherhood)」「父であること(fatherhood」)という問題に関連しています。

「宿家」から「居場所」へ

それから、漢字の「家」と「Home」はおそらく最も近いでしょう。黄(2021)は「home」を「家空間」と翻訳していますが、私は無意味な「空間(space)」よりもむしろ意味のある「場所(place)」としての「home」の方が適切だと考えます。例えば「故郷(hometown/homeland)」は決して無意味な空間ではなく、むしろ思い出が集まる場所であり、「離散(diaspora)」の座標系をさらに拡大します。したがって、「空間」と「場所」の方向性は、「宿家」と「居場所」の距離になります。

この方向性に関して、アイリス・ヤングは「宿家と居場所(House and Home)」という論文で詳細な現象学的記述を行っています。これは、彼女がハイデッガーの「住むこと(dwelling)」に対する批判に続くものです。ハイデガーは「住むこと」を「建てること(building)」と「維持すること(preservation)」に区分しますが、「維持すること」を軽視し、「住むこと」を最後には「建てること」と同等の言葉と見なします(Young 2005)。そして、彼女は「宿家と居場所」の間の方向性を「居場所における同一性の物質化過程(the process of the materialization of identity in the home)」として記述しています。

居場所における同一性の物質化過程には、2つのレベルがあります:(1)私の持ち物は、私の身体的な習慣の延長として空間に配置され、私のルーチンを支えるためのものであり、そして(2)居場所における様々なモノ、および空間自体が、個人的な物語の保持者として沈殿した個人的な意味を持っています(Young 2005: 139)。

第一のレベルでは、身体とモノが相互に適応し、この過程に、モノは身体的な習慣を反映するだけでなく、身体の延長となります。そして、第二のレベルでは、生活の意味がモノや空間に物語として沈積され、出来事や関係の物質的なマーカーとなります。この物質的なマーカーは、同一性を固定する(fix)のではなく、同一性をモノに「投錨(anchor)」し、生命の連続性を創造します。そして、この同一性を投錨した後、「維持すること」がさらに重要になります。維持することは修復や思い出に関することだけでなく、モノの意味を更新し、新しい出来事を物語に統合する意味も含まれています(Young 2005)。維持することが生命の継続であると言えます。ヤングは、ファン・レネップの説明を補足として引用しています。

[住むこと]とは、私たちが取り巻くモノとの断絶のない関係であるため、空間での私たち自身の連続した展開です。それは空間を構成する人間の実存そのものです。私たちは単に他の方法を取ることができません。私たちを取り巻くモノは、私たちが空間に住んでいる者と同じような空間の質で自己を呈示します。「私の部屋」という表現における代名詞「私の」は、それを所有していることを表すのではなく、私と部屋との関係を正確に表しており、これは私の空間的実存が生まれたことを意味します。 (Lennep 1987;Young 2005から再引用)

「感情変化」によって「家関係」

一方で、この翻訳は正確ではありませんが、「family」を「家関係」と翻訳したいと考えています。私はそれを「未熟(strange)」から「熟慮(familiar)」への方向性に置きたいです。(「familiar」が名詞として使用される場合、それは魔女と共存する精霊を意味します。)私はそれに「選択的親和性(selective affinity)」という意味を与えたいと思っています。この言葉は化学に由来し、ゲーテでは運命と不倫を指し、ヴェーバーでは「新教倫理」と「資本主義精神」との関係性基盤を意味します。私が表現しようとしているのは、「家関係」が単なる強固な「社会単位」であるだけでなく、引力、結びつき、離脱の中に動的であることです。

前述の「共有」と「承認」という側面に触れたように、台湾のタイヤル族の「家」も同様に理解されます。タイヤル族の家では、居場所と家関係が相互に対応し、「同居共食」と「gaga実践すること」を通じて、家が形成され、gagaが継続されています(王2014)。gagaは文字通り「伝承/祖先の言葉」を意味し、同時に倫理、禁忌、行動規則、能力、運命などを広く指します(王2014: 253)。gagaはある程度でタイヤル族の「家」と対応し、「一つの家、一つのgaga」として表現され、同居共食を通じて一つのgagaを共有し、一人のメンバーが死んだ後もその家の「utux(霊)」となることができます(王2014: 259-260)。

そして、王梅霞(2014)は感情人類学の地平から、タロコ族のフィールドワークを通じて、「共有」と「承認」以外に、「感情変化」が「家関係を作ること」の基盤として提案されました。親子、結婚、友情関係に関わらず、タロコ族のパートナーシップの基盤は「mgalu愛憐、同情)」という感情です。mgaluの欠如は衝突を引き起こす可能性があり、そして、mgaluの前提で理想的な関係(非ヒトとの関係も含む)が成立し、例えば「mgaras(喜び)」や「tkgaras(気楽、苦労がない)」な関係になります(王2014: 297-298)。王(2014: 239)は、教会の例を挙げており、ある伝道で牧師が「共食の中で共有されるのは食物そのものではなく、mgaluである」と述べました。これにより、教会も「家」になることができます。王(2014)はまた、共食に加えて、労力の共有や心の共有など、感情の交換を行うためのいくつかの方法についても言及しています。

王は、タロコ族における「家を作ること」における感情の重要性を強調し、これは漢人の固定された親族/祖霊秩序に基づく結婚や親族交換とは異なります。この点を説明するために、王氏は論文の冒頭で次の言葉を引用しています。

Mlingan/mskuhun sejiq ga. Ndka qsiya yayung msypu qluli. Wada mstrung paru btux duri ga. Wada mswayay ka elu qnliyan da ha duri. Wada msupu ka elu daha duri.

人の感情は2つの川のようであり、時には一緒に流れ、大きな岩にぶつかると別れ、また時には再び合流する。(王2024: 249)

私は、この引用文が私が言いたい「選択的親和性」を的確に表現していると考えています。台湾の路上生活者の短期間の「鬥陣関係」では、利益交換がより強調されていますが、「信頼」と「疑い」も不可欠な重要なテーマです。私は、血縁社会の結婚関係に比べて、このような混沌とした不穏な関係の中での「感情変化」過程は、さらに強烈である可能性があると考えています。

「居場所」か「家関係」 か

この記事の冒頭で、DDは「家」が「場所」と「他者」から構成されると提案します。私にとって、それは「居場所」と「家関係」も説明できると思います。しかし、DDの補足的な説明を考えると、空間の一部としての「老人の椅子」もまた「家関係」における他者となり得ることに気づくでしょう。

このような事例は私の生活でも見られます。私の机のそばには、一つの額縁が置かれています。その中には「私がパートナーと呼ぶキャラクター」のイラストが入っています。台北の家を出るとき、それは私と一緒に出て、私と一緒に「私の部屋」に戻ってきました。それを見ると、私はエネルギーを得ることができます。それは「他者」であり、同時に「私の部屋」「私の居場所」の境界を定めています。それは私の家への所属感の一つの源です。

このような呪術性は、漢民俗における「灶神」と似ており、家が灶神という非ヒト他者を通じて、「居場所」の境界を定義することがあります。私はデュルケームの「集合良識(conscience collective)」理論や呪術と宗教の区別を導入したり受け入れたりするつもりはありませんが、デュルケームは『社会分業論』でこのような「場所」と「他者」の関係についても言及しています。

何よりも重要なことは、その法人は宗教的会社であったことです。それぞれが独自の特定の神を持っており、手段があれば、特別な神殿で崇拝されました。各家族に家族神(Lar familiaris)がいたように、各町には町神(Genius publicus)がいたように、各会社には守護神、会社神(Genius collegii)がいました。(Durkheim 2013: 15)

デュルケーム晩年の著作『宗教生活の基本形態』では、彼はこのような集団と神との関係についてより明確に議論しています。彼の構築したトーテム理論では、これらの「聖なるもの」を「集合的表象(collective representation)」と呼び、集合生活から発散する「マナ」に由来するとしています(Durkheim 1995)。デュルケームにとって、「聖なるもの」は彼の人間性に関する二元論(dualism)の基盤であり、社会的事実が人間に対して鎮圧的であるという考えに基づいています(Durkheim 2005)。そして、どのようなものが「トーテム」になるかは偶発的です。

私の問題設定はデュルケームとかなり異なります。まず第一に、私がモノと結びつくこの場所は、デュルケームにとっては「集合的」とは言えないでしょう。第二に、デュルケームにとっては、トーテムの他者性は重要ではないようであり、この他者性は集合的鎮圧性の中で二次的な部分に過ぎません。しかし、私が注目したいのはこの「他者性(otherness)」です。私は、老人の椅子がどのように他者になったのか、炉がどのように霊性を持つようになったのかを知りたいです。これらの他者が空間の一部として、「家場所」に意味を与える方法、また、空間の一部が「家関係」における他者となる方法を知りたいのです。そして、この過程は、明らかに「集合的沸騰」だけでは行われないことがわかります。

私はこの主題を一時的に「モノの他者化(otherization of objects)」と呼び、将来的にさらに研究したいと考えています。私にとって、この他者性は集合的表象だけでなく、細かい関係の中で、「アニメーション=他者の構築」というさまざまな行動を通じて形成されます。この過程は、「居場所における同一性の物質化過程」と「家を作る感情変化」の交差点になるかもしれません。

文献

Durkheim, Emile.  2013. Durkheim: The Division of Labour in Society. Edited by Steven Lukes. Palgrave.

Durkheim, Emile. 1995. The Elementary Forms of Religious Life. Translated by Karen Elise Fields. Free Press.

Durkheim, Emile. 2005. "The Dualism of Human Nature and its Social Conditions."Durkheimian Studies/Études Durkheimiennes. 11. 35 45.

May, Rollo. 2009. Man's Search for Himself. W. W. Norton & Company.

Weismantel, Mary. 1995. “Making Kin: Kinship Theory and Zumbagua Adoptions.” American Ethnologist. 22(4). 685-704.

Young, Iris M. 2005. On Female Body Experience: "Throwing Like a Girl" and Other Essays. Oxford University Press.

まどかしとね。2024。「すべてはファミリーのために──押井守と冷たい身体/獣の匂い立つ身体」。『攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_』。ISSUE #02=特集_アウトロー|Outlaw。

王梅霞。2014。「『人的感情像流動的水』:太魯閣人的家與情感」。『21世紀的家:臺灣的家何去何從?(黃應貴編)』。群學。249-310。

林文玲。2014。「跨性別者的成家之道」。『21世紀的家:臺灣的家何去何從?(黃應貴編)』。群學。149-204。

黄克先。2021。『危殆生活:無家者的社會世界與幫助網絡』。春山。

臺大御宅研究讀書會。2022。「圍爐清談:宅研談宅」。『球根.Rhizome|宅生態專題』。同人誌。