不可視な世界

非対人性愛・人間と非人間の関係性・神経多様性・クィアな世界制作

ヒト-モノ関係性における概念細分と対物倫理

*この記事の一部は、以前「対物性愛と人形愛の序説:非対人性愛・万物のジェンダー・対物倫理」という講演、および「アニメイトな類縁関係・非ヒトな家族:前近代東アジアの冥婚から現代のフィクトセクシュアル婚まで」という会議論文で発表されました。

少し前に、私はエイミー・マーシュの論文「対物性愛者の愛(2010)」を漢語に翻訳しました。この論文は対物性愛者の貴重な経験の記録ですが、理論部分にはいくつかの躊躇があります。マーシュは「モノ人格化共感覚(object personification synesthesia)」が対物性愛の「成因(cause)」である可能性を提唱し、「マーシュのヒト/モノ親密さスペクトラム©」を描いています(Marsh 2010)。論文では、このスペクトラムがどのように理解や使用されるべきかについて説明されていませんが、マーシュは「モノを通して行動(behavior)→モノへの関心(interest)→モノに対する志向性(orientation)」という弱から強へと向かう志向性における要素を描こうとしています。

このスペクトラムは基本的に「人格化」の強度を中心に構築されています。おそらく、これはマーシュが対物性愛者と「フェティシズム」または「パラフィリア」を差異化するためにこの議論を提起したと思われます。私は、このような差異化が当事者にとって必要であると思います。なぜなら、それによって対物性愛がいくつかの精神医学用語によって恣意に抹消されるのを避けることができるからです。しかし、これによってフェティシズムが排除され、フェティシズムの可能性に対する開放的な解釈も失われることになります(e. g. 田中2018)。

マーシュの研究協力者の一部は、「対物性愛はフェティシズムではない」と強調し、マーシュも論文でこれらの部分を強調しています。しかし、マーシュの研究協力者の中には、フェティシズムに近い経験を描述する人もいます。マーシュのスペクトラムを実際に使用して分類を行う場合、予期しない排除効果が生じる可能性があることを心配しています。すなわち、「あなたはフェティシズムなので、対物性愛ではない」ということです。また、「スペクトラムの右側に近いので、私はより真の対物性愛者です」という主張も生じるかもしれません。このようなリスクが存在します。(これは現時点では仮説であり、これまでこのようなデータはありません。)さらに、「人格化」に関する問題については、松浦優(2023)も詳細に議論しています。

ヒト-モノ関係性における概念細分

マーシュが言及する「感覚(sense)」について議論したいと思います。マーシュは、モノ人格化共感覚の仮説を採用しているため、マーシュ・スペクトラムでは、対物性愛の最も「完全な(full)」形態には「モノの人格や/またはジェンダーへの完全な感覚」という要素が含まれると考えています。松浦(2023)が指摘したように、非対人性愛の研究では、人格と関係性の問題に注目する必要があります。私はマーシュに送ったメールでも、これらの「感覚」の存在論的側面と「社会性(Sociality,マリリン・ストラザーンの用語)」の基盤に注意を払う必要があると提案しました。したがって、私は以下の6つの概念を区別しました:

① 生気(Animacy):命の質。生気の階層の存在論な図式は「生気階層(animacy hierarchy)」と呼ばれます。

② 人格観(Personhood):人格の階層/カテゴリーの存在論な図式(e. g. スカラ・ナトゥラエ)。

③ モノ観(Objecthood):モノ性の階層/カテゴリーの存在論な図式。

④ ヒトガタ(Anthropomorph):ヒトのゲシュタルトな形。

⑤ 人間概念(Human Notion):人間の文化的定義(例:人間性)。

⑥ 重要な他者性(Significant Otherness):関係の中のある他者性。他者を他者として扱うよう促す。

私にとって、その中で最も感知的な側面は「生気」です。つまり、何らかの存在がどの程度「生き生き」と感じられるかです。しかし、これは社会性の基盤がないということではありません。たとえば、英語の「アニマ」の語源は「息づかい」に関連していますが、日本語では「いる/ある」の区別は「動き」とより関連しています。「生気」は「そこに他の存在がいる」という感覚と結びついており、それゆえに「不気味さ(uncanny)」という精神的な不確定性とも関連しています。(このトピックについては将来の記事で議論します)

「人格観」は、近年の人類学で重要な問題とされており、社会性の中で何が「人格」を構成するかについての問題です。「人格」というの言葉を使っていますが、それは「人間」という「種の概念」とは関係ありません。ある存在が何で構成され、どのような表現を持ち、相互作用や交換ができるかなどが決定します。台湾の典型的な例は、黄應貴教授のブヌン族研究です。ブヌン族の人格観では、万物が精霊「hanitu」で構成されており、ヒトと他の万物の違いは、ヒトが左右にそれぞれ2つの「hanitu」を持っている点です。他の万物は1つしか持っていません。人格観はまた、宗教的な解釈の文脈でも見られます。たとえば、伝統的な仏教では、草木動物とヒトの違いは「情(sattva、सत्त्व)」と「識(vijnana、विज्ञान)」の違いにあり、これが草木が成仏できない理由とされています。しかし、日本の天台本覚思想では、「本覚」が「情」と「識」よりも基本的な性質になり、「草木国土皆悉成仏」の人格観が成立します。

そのような巨視的な議論にとどまらず、人格観はより微視的な視点からも研究されることがありますが、マーシュの研究ではヨーロッパ的な人格観が仮定されており、異なる対物性愛者の「人格化」において、何らかの人格観の違いがあるかどうかについての研究は行われていません。例えば、対物性愛国際は、アニミストが対物性愛者の間で珍しくないと述べていますが、マーシュはこれを議論する価値がないと考えているようです。

「モノ観」とは、「このモノは何モノか」という視点です。「モノ」とはすべてが同じ統一的な性質を持っているわけではなく、例えば自然物、人工物、道具、食物/薬物/毒物、交換物/贈り物、通貨、商品、芸術作品、奉納物、崇拝物、霊体、愛着物、遺物、家、風土/風景などなど、あらゆる種類の「モノ」があります。近代の規範的な「モノ観」は「道具的な世界観」であり、そこではモノは道具としてのみ存在し、人間が支配者であり、モノが被支配者であると仮定され、ヒトとモノとの関係は常に「支配-従属関係」であるとされています(田中2018)。しかし、実際の状況はそうではありません。モノはエージェンシーがあり、人間と様々な複雑な絡み合いがあります。モノ観を考慮しないと、これらの異なる関係性に気づくことができません。

ちなみに、私が「モノ観」の問題を考え始めたのは、難波優輝さんの「物に当たるのはなぜ悪いのか?」という記事からです。この記事では、「物の人格、いわば『物格(obsona)』」という概念が提案されています。しかし、「obsona」という英単語は存在しないようで、私はこの社会性的基盤を表すために、人類学で学んだ「objecthood」という言葉を使っています。また、難波さんはこの記事がある英語論文に触発されたと述べていますが、その英語論文の出典を忘れてしまったそうです。私もその英語論文にとても興味がありますので、もし情報をお持ちの方がいれば、教えていただけると幸いです。

「ヒトガタ」と「人間という種概念」も他の概念と区別される必要があります。ヒトガタを持っていることは、必ずしも人格を持っていることを意味せず、また人間と必ずしも指示関係にあるとは限りません。このような必然的な関係を仮定することを「形態的本質主義(morphological essentialism)」と呼びます(松浦2023)。そして、このような本質主義の傾向は、そのモノ自体の他の性質を見逃し、またモノとの関係を対人関係に還元し、分析上の問題を引き起こします。たとえば、ヒトガタを示すモノは、存在論的には依然としてモノであり、人間ではないということです。そして「人間概念」は、文化における人間の定義であり、例えば、「人間性は何か」「人類とはどのような特性を持つ種か」といった問題に関連しています。これは人格観と関連していますが、その一部に過ぎません。

ヒトーモノのパートナーシップにおいて、最も重要だと考えるのは「重要な他者性」です。この概念はダナ・ハラウェイの『伴侶種宣言』から来ています。それは、私たちが関係を真剣に考え、「関係の中の他者性」を「自己の投影ではない」ことを確保する方法に関係しています(2003:50)。これは、関係、他者、世界の「要望(demands)」を綿密に探求し、より良い同棲共構な世界を形成し、さらに「ケア」と結びつけることを可能にします(2003:61)。重要な他者性は「人格化の度合い」とは無関係であり、むしろ矛盾する可能性があります。そして、マーシュの用語「成功(success)」を使用すると、成功したヒトーモノの関係において、人格化の度合いよりも重要な他者性がより重要な問題であると考えます。

私は、これらの六つの概念を区別することが、単に「人格化の度合い」を使用するよりも、ヒト-モノ関係の基礎と様態についてより詳細に議論できると考えています。もちろん、他のいくつかの概念も議論に含める必要があるかもしれません。例えば、「エージェンシー」に関する議論があります。ブルーノ・ラトゥールやアルフレッド・ゲルが論じているように、モノはエージェンシーがあり、それがヒトーモノの関係性を形成するというものです。これらの六つの概念はすべてエージェンシーのテーマと関連していると言えます。ただし、このような議論はかなり複雑になる可能性があるため、この記事ではこれらの六つ概念の区別について簡単に紹介するにとどめました。

対物倫理を問い合わせる

私の以前のフィクトセクシュアル研究では、「キャラクターの後事」は私の一部の研究協力者にとって重要な主題でした。キャラクターの「死」は何を意味するのでしょうか?キャラクターのアクセシビリティが失われた場合、どうすればいいのでしょうか?「損壊」はどうすればいいのでしょうか?ベルリンの壁と結婚した有名な対物性愛者、エイヤ=リータ・エクレフ=ベルリナー=マウアーのケースでは、ベルリンの壁が取り壊された後、彼女は自分が「寡居」として生きていることを説明しています。これは重要な例です。モノとの関係を対人性愛関係のように扱うのは正しいでしょうか?それとも、非対人性愛の当事者が受け入れることができるでしょうか?エクレフ=ベルリナー=マウアーは受け入れられますが、私の研究協力者はまだ迷っています。対人関係では、私たちの文化は「喪失(loss)」にどう向き合うかを教えてくれましたが、ヒト-モノ関係では、失われた重要な他者をどのように追悼すればよいか、文化は私たちに教えていませんでした。

私はTwitterでも一つの例を見ました。

この神社の掲示板を通じて、宮司は宗教的な権威の立場から、「人形やぬいぐるみ」をゴミ場に捨てても神様からの罰を受けないと伝えています。しかし、これらのモノを愛する人々は、「人形やぬいぐるみの後事」が罰の問題だけでなく、愛、喪失、追悼の問題でもあることを知っています。これには一種の「倫理的正しさ」があります。これらを簡単にゴミ場に捨てることは、神様からの罰を受けなくても、良心の責めに耐えることになります。重大な場合、トラウマな経験さえ引き起こす可能性があります。しかし、私たちの文化は、これらの非ヒト他者と「きちんと別れる」ための「通過儀礼」を提供していません。

私は「対物性愛と人形愛の序説」という講演で、このような問いを提供して、皆さんの意見を求めました。この問題は、私の友人がスマホで見て私に尋ねたものです。

もし今日災害が発生し、5分以内に緊急避難しなければならないとしたら、家にいるものを1つだけ救うことができるとしたら、何を救いますか?

聴衆の中にはペットを救う、本を救う、パソコンのデータを消去する、と答えた人もいました。私自身、この質問を聞いたとき、私は実家4階の仏像たち(阿弥陀三尊)を救うと答えました。しかし、4月3日の花蓮地震では、私は実家の他の人たちに同じ質問を尋ねたところ、みんな最初の行動は服を着ることでした。そして、私が夢から驚いて目を覚ましたとき、最初に行ったのは揺れる本棚を支えることで、地震が終わるまでそのままでした。

後で学者の友人とこの問題について話し合いましたが、私を強く共感させたのは「博論の原稿を救う」という答えでした(笑)。彼に、ある教授が私に語った話をしたのです。第二次世界大戦中、ノルベルト・エリアスは自らの『宮廷社会』の原稿を地下室に隠し、20年後にドイツに戻ってこの本を出版するまでそこに置いていたと言われています(この歴史の真偽については確認できません)。そして、ヴィクトール・フランクルの経験を話しました。フランクルは自分の論文原稿を密かに持ち逃亡し、強制収容所に他の被収容者にこう説明しました:

聞いてくれ、これは学術書の原稿だ。きみが言いたいことはわかっている、よくわかっている。命あっての物種だ。運命の情けにすがるのは、なんと言っても命請いするときだ。だけどわたしは欲張りな人間でね、自分で自分をもてあますよ。この原稿を持っていたいんだ。わたしのライフワークなんだ。(フランクル2002)

その被収容者は「糞ったれ!」とフランクルに簡潔に答え、その瞬間、フランクルは自分の状況を理解しました:「それまでの人生をすべてなかったことにしたのだ」(フランクル2002)。多くの研究者がこの経験に共感できると思います。

私は、橋本典子(2001)の論文で「対物倫理(ethica ad rem」という言葉を見つけました。これは、上記の倫理的状況を記述するのに非常に適していると考えています。橋本(2001)は、カントやハイデッガーの哲学を通して議論していますが、私はより広い意味でこの概念を使用し、それにいくつかの応用性を提供したいと考えています。私自身は倫理学者ではありませんが、これらは非対人性愛者の日常生活における倫理的状況であり、実践的な前提のもとで、私も自身の構想を粗雑に提案しました。

私は対物倫理を「モノを目的とする倫理」と理解しています。この構文は、カントの三大定言命法の第二定式である「目的の方式」に由来します。

あなたの人格のうちなる人間性を、またどのひとの人格のうちにもある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように、行為しなさい(河村2007から再引用)

ここではカントについて詳しく議論しませんが、カントの形式を通じて「いつモノが行為の目的として扱われるべきか」と問うことを試みたいと思います。私たちの規範的文化=道具的な世界観は、「モノを目的とする行為」を拒否しているように見えます。これも「フェティシズム論」に現れており、例えばフランスの初期な宗教研究者、マルクスフロイトの言説において、モノ自体が「不在の代替物」として表れ、それ自体に内在的価値がないとされています(田中2018)。

これは、私たちがモノと「純粋な関係」を築くことが不可能であり、「重要な他者性」をモノとの関係の中で見つけることができないことを意味するように思われますが、これは明らかに間違っています。「純粋な関係」はアンソニー・ギデンズの用語に由来し、自体的に価値を生み出す関係を意味し、このようなヒト-モノ関係性は不可能ではなく、実際、一般的です。壊れたぬいぐるみをどのように扱うかのように、日常生活の中で常に「モノを目的とする倫理的状況」が発生しますが、ヒトビトはしばしば無自覚です。

私は以前の講演で、対物倫理の問題設定を「エージェンシーの問題(problem of agency)」「意味や価値の問題(problem of meaning or value)」「責任の問題(problem of responsibility)」の3つのレベルに分け、また、対物倫理の指向を「モノ指向(object-oriented)」「モノ観指向(objecthood-oriented)」「関係性指向(relatedness-oriented)」の3つのレベルに分けました。これらの問題設定と指向は対応関係があります。これはまだ非常に粗い分類にすぎませんが、問題の異なるレベルを明確にするのに役立つと思われます。

「エージェンシーの問題-モノ指向」とは、端的に言えば、「モノは何をしているのか?私たちはモノとどのように協力するのか?私たちはモノの行動に従うべきか、それともモノの行動を阻止すべきか?」という問題です。モノはそのエージェンシーを通じて人間を呼び起こすことがあり、我々がそれにどのように応答するかがこのレベルの問題です。

「意味や価値の問題-モノ観指向」と「責任の問題-関係性指向」は、私の現在の区分ではやや混乱しています。私は、難波優輝の問題設定「物に当たるのはなぜ悪いのか?」がモノの意味や価値のレベルの問題であると考えています。そして、倫理的正しさは最終的に「モノ観」に依存するため、私はそれを「モノ観指向な対物倫理」と呼んでいます。しかし、モノ観は社会性的な基盤を持っているため、それは関係性の議論から切り離すことはできず、これが第三のレベルとやや区別が難しい原因です。

最後、先ほど触れた「どちらを救うか」と「後事」の問題は、基本的に「責任問題ー関係性指向」のレベルであり、これは関係性の中の「重要な他者性」に依存し、ここでは内在的な価値となります。関係性に基づいて行動し、関係の中の他者性を注意深く探り、関係の中で生じる様々な「要望」に応えることが、おそらくこれら3つのレベルの中で最も一般的な行動指針となります。

昔、(フィクトセクシュアルではなく)ある方が私に、フィクトセクシュアルな生活において、架空のキャラクターの意向性問題(実際には「同意」問題)を尋ねました。当時、私はラトゥールの「モノの議会(the parliament of things)」で彼に答えました。しかし、私は常にその「専門家代弁」の形式に問題があると感じていました。今、私は先述の対物倫理に関する議論が、彼の質問により詳細に答えるのに役立つと考えています。おそらく私たちは、この枠組みを通じて、ラトゥール式的なモノの議会とは異なる形式のモノの議会をデザインすることもできるでしょう。

私は対物倫理を非対人性愛者の生活問題と考えており、そのために非対人性愛コミュニティにおける対物倫理の議論を促進しようとしています。しかし、それは非対人性愛者に限らず、他の領域にも拡大することができます。私は専門の応用倫理学者ではありませんが、他の技術倫理、環境倫理、ロボット倫理、考古学/博物館倫理、動物倫理/動物福祉などの分野の専門家が議論に加わることで、以上に提案された枠組みはさらに豊かな拡張性を持つ可能性があると考えています。

文献

Haraway, Donna. 2003. The Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness. Chicago: Prickly Paradigm Press.

Marsh, Amy. 2010. “Love among the Objectum Sexuals.Electronic Journal of Human Sexuality 13.

ヴィクトール・E・フランクル。2022。『夜と霧 新版(池田香代子訳)』。東京:みすず書房

田中雅一。2018。『誘惑する文化人類学:コンタクト・ゾーンの世界へ』。京都:世界思想社

松浦優。2023。「対人性愛中心主義批判の射程に関する検討:フェミニズム・クィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて」。『人間科学共生社会学』。(12)。21-38。

河村克俊。2007。「定言命法『普遍化の方式』と『目的の方式』」。『外国語外国文化研究』。(14)。195-214。

橋本典子。2001。「人格(ペルソナ)について:対物倫理(ethicaadrem)を通して」『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報』,9。13-24。

難波優輝。2022年4月24日。「物に当たるのはなぜ悪いのか?」。Note: Lichtung Magazines。2024年4月8日參照。