不可解な世界

非対人性愛・人間と非人間の関係性・神経多様性・クィアな世界制作

ノンバイナリー用語小事典

本記事は、私が台湾のアドボカシー団体「Taiwan Nonbinary Queer Sluts」のために執筆した小事典であり、同団体が出版を予定しているミニコミ誌『くたばれ二元世界:ジェンダークィアの物語を見つめて』第2号に収録される予定である。翻訳にはChatGPTを使用したものである。

この『ノンバイナリー用語小事典』は、現代のノンバイナリーおよびトランスジェンダーコミュニティにおいて用いられる概念、アイデンティティ、経験を整理し、暫定的な思想の地図を提供することを目的としたものであり、権威ある辞書ではない。文中の用語の多くは、コミュニティの実践、学術的議論、公共のアドボカシーから採られており、それらは言語、文化、制度の文脈によって理解が異なる場合があり、かつ今なお変化し続けている。

本小事典は、性別が単なる心理的状態ではなく、また線形のプロセスでもなく、生活経験、社会的相互作用、制度的環境のなかで形成される多層的かつ多次元的なプロセスであることを示すことを目指している。したがって、これらの概念は性別を固定化するためのものではなく、理解、対話、相互尊重のための道具として提示されている。

小事典はすべてのアイデンティティや用語を網羅することはできず、概念上の張力や議論の余地が存在する可能性がある。読者が本文を読むなかで、特定の記述が自身の経験に完全には対応しないと感じたり、概念間に裂け目を感じたりした場合、それこそが性別の知識が絶えず生成される現象である。本小事典が出発点となり、補足、議論、疑問提起、さらなる発展のためのツールとなることを願う。性別に関する言語の意味は、使用され、共有され、再命名される過程の中で育まれるものである。

一、カテゴリー Categories

ノンバイナリー・アンブレラ(Nonbinary Umbrella)

ノンバイナリーとは、自身の性別を「男性/女性」という二元的枠組みに完全には限定しない性同一性を指す。英語圏では「NB」または「Enby」と略されることが多く、日本語圏ではしばしば「Xジェンダー」と併用される概念である。この用語は包括的概念として用いられ、中間的、混合的、流動的、アジェンダー的、あるいは固定的分類そのものを拒否する性別観など、多様な理解と経験を含んでいる。共通点は、性別を「どちらか一方」の選択としてではなく、多様で可変的なものとして捉える点にある。ノンバイナリー・アンブレラに含まれる代表的なアイデンティティには、以下が挙げられる。

  • アジェンダー(Agender):いかなる性別にも属していると感じない、あるいはジェンダーという分類自体に帰属意識を持たない。

  • ジェンダーフルイド(Genderfluid):性同一性が時間、状況、人生段階によって変化する。

  • デミジェンダー(Demigender):特定の状況や一定の程度において、ある性別に部分的にアイデンティファイするが、完全には同一化しない(例:デミ男性、デミ女性)。

  • バイジェンダー(Bigender):二つの性別を同時に、または異なる時期に経験する。

  • パンジェンダー(Pangender):複数またはすべての性別にアイデンティファイし、男性・女性・中性・その他のノンバイナリーな経験を含み得る。

  • ゼノジェンダー(Xenogender):人間の男女性別概念では記述できず、人間以外の概念・種・自然要素・象徴などを用いて表現される性別経験およびそのアイデンティティ。たとえば、星空、水の流れ、架空の種など。

トランスジェンダー(Transgender)

トランスジェンダーとは、出生時に割り当てられた性別と自身の性同一性が一致しない人々を指す総称である。この用語は脱病理化の意義を持ち、医療診断や手術経験を唯一の基準とせず、多様な性同一性と移行の在り方を含む。一般的な分類として、トランス男性(FtM/Trans Man)、トランス女性(MtF/Trans Woman)のほか、性別表現の方向性を示すトランスマスキュリン(Transmasc)、トランスフェミニン(Transfem)、またノンバイナリー・トランスジェンダー(FtX、MtX)などがある。

ジェンダークィア(Genderqueer)

ジェンダークィアはノンバイナリーに近接しつつ、より政治的含意を持つ性同一性である。性別の流動性と構築性を強調し、性別二元制や統治に対する意識的な抵抗を含む。性別を安定的で自然な分類とみなす前提そのものを問い直す概念であり、二元的枠組みを超越または転倒させる多様な性別実践の総称として用いられることもある。類似概念として「ジェンダーアウトロー(Gender Outlaw)」が挙げられる。

第三の性別(The Third Gender)

英語圏において「第三の性別」は、男性/女性の二元制の外部に位置する、文化的・歴史的に多様な性別類型を包括的に指す語として用いられる。例として、北米先住民の「ツー・スピリット(Two-Spirit)」、南アジアの「ヒジュラ(Hijra)」、オセアニアの「マフー(Māhū)」などがある。第三の性別を論じる際には文化的盗用のリスクに留意する必要があり、またこの概念が「性別は三種類に限られる」ことを意味しない点にも注意が求められる。実際には、三種類以上の性別分類を持つ社会も存在する。

クエスチョニング(Questioning)

クエスチョニングとは、自身の性同一性や性的指向について、現在も探索・検討の過程にある状態を指す。これは過程性を強調する用語であり、特定の既存カテゴリーに確定的に帰属していないことを意味する。クエスチョニングという枠組みを用いることは、内的・外的圧力や不安を軽減する助けとなる場合がある。

アライ(Allies)

アライとは、性的少数者ではないものの、差別に反対し、性的少数者の権利と福祉を支持する人々を指す。実践には、当事者の経験に耳を傾けること、アイデンティティや代名詞を尊重すること、排除的制度を批判すること、公共空間で声を上げることなどが含まれる。一方で、アライと当事者の関係には権力の非対称性が存在し得るため、代弁、消費、感動ポルノ(Inspiration Porn)などの問題に注意が必要である。また、共感や悲嘆から生じる心理的消耗は「アライシップ・ファティーグ(Allyship Fatigue)」と呼ばれる。

 


二、概念 Concepts

出生時に割り当てられた性別(Assigned Sex/Gender at Birth)

出生時割当性別とは、出生時に医療従事者が外性器の特徴に基づいて制度的に割り当てる性別分類を指す。例として「出生時割当女性(AFAB)」「出生時割当男性(AMAB)」、または「出生時性別不明」などがある。この情報は出生証明書、戸籍、身分証明書に記載され、教育、兵役、医療、法的手続きに影響を及ぼす。

性同一性と性別表現(Gender Identity and Gender Expression)

性同一性とは、自身の性別的位置づけに関する内的感覚、自己理解、自己認定を指す。これは出生時割当性別と一致する場合も一致しない場合もあり、必ずしも外見から他者に認識されるとは限らない。性別表現とは、服装、髪型、化粧、声、話し方、身体動作、対人行動などを通じて性別を表現する様式を指す。これらに対する規範的期待はジェンダーステレオタイプと呼ばれる。

性別代名詞と新代名詞(Gender Pronouns and Neopronouns)

性別代名詞とは、特定の言語において他者の性別身分を指すために用いられる言語形式である。例えば、英語の he / she / they / xe 、または中国語の「他」、「她」、「TA」や「X也」などが該当する。個人が選択した性別代名詞を使用することは、基本的な尊重および社交的マナーと見なされる。性別代名詞に類似した言語形式には、「親族称呼」や「名前」も含まれる。性同一性を表現するために創出された代名詞は新代名詞(Neopronoun)と呼ばれ、特にゼノジェンダーのコミュニティおよびその実践において重要である。英語圏では、新代名詞は主に、theyの派生型(例:xe / xem / xyr、ze / zir / zirs など)、名詞型(例:妖精を表す fae / faer / faers、星を表す star / stars / starself など)、および絵文字型(例:🌸 / 🌸s / 🌸self、⭐ / ⭐s / ⭐self など)の三つの系統が存在する。

性別非順応(Gender Nonconforming)

性別非順応とは、服装、振る舞い、関心などが、社会的に期待される特定の性別役割に一致しない状態を指す。この概念は主に性別表現に関わるものであり、トランスジェンダーやノンバイナリーのカテゴリーと同一ではないが、より包括的な記述語として用いられることがある。

 


三、移行 Transition

性別違和(Gender Dysphoria)

性別違和とは、性同一性と割当性別、あるいは社会的扱いとの間に乖離がある際に生じる苦痛や不快感、ストレスを指す。これに対し、性別が肯認され社会的相互作用と一致した際の肯定的感覚は「性別多幸感(Gender Euphoria)」と呼ばれる。この概念は従来の「性同一性障害」に代わる脱病理化された用語であり、DSM-5-TRでは「性別違和」、ICD-10では「性別不合」(Gender Incongruence)として性の健康に関連する項目に位置づけられている。性別違和の多様で差異的な経験は「違和連続体(Dysphoric Continuum)」と呼ばれる。

カミングアウト(Coming Out)

カミングアウトとは、自身の性的少数者としてのアイデンティティを自発的に他者に明かす行為を指す。「クローゼット(Closeted)」や、本人の意思に反して暴露される「アウティング(Outing)」とは区別される。カミングアウトの判断には安全性、社会的支援、心理的準備が関わり、他者への伝達だけでなく自己承認の過程でもある。

性別移行(Gender Transition)

性別移行とは、自身の性同一性に近づくために行われる社会的、法的、医療的、象徴的調整の総称であり、単一の標準的過程や到達点は存在しない。関連概念として、特定の性別として認識される「パッシング」(Passing)、異なる性別で生活を試みる「リアルライフテスト」(RLT)、完全に特定の性別として生活する「埋没(Stealth)」などがある。ノンバイナリーの中には移行を行わない人もおり、移行を必須かつ直線的なものとみなす考え方は「移行規範」と呼ばれる。

性別肯定ケア(Gender-Affirming Care)

性別肯定ケアとは、当事者の人権、尊厳、安全を中心に据えた医療・ケアの枠組みであり、コンバージョン・セラピーと対置される。ホルモン療法(HRT)、思春期抑制治療、音声治療、性別肯定手術(GAS/SRS)などが含まれる。一方、これらの医療資源へのアクセス条件として課される診断や評価、行動規範は「ゲートキーピング(gatekeeping)」と呼ばれる。

ジェンダーレス/ノンバイナリー・ファッション(Genderless / Nonbinary Fashion)

ジェンダーレス/ノンバイナリーファッションとは、伝統的な男女の服装分類に縛られない着こなしやデザインを指すものである。この種のファッションは、ゆったりとしたシルエット、中性的なカッティングや色調が特徴であることが多い。しかし、それは単なる中性化や性別ラベルの除去にとどまらず、実験的で文化が混ざり合ったスタイルや規範を打破するデザインも含まれる。重要なのは、安定した性別認識ではなく、流動的な身体感覚を強調することである。日本の文脈では、ジェンダーレスファッションの概念は2010年代の「男装」ブームとともに広まったのである。

 


四、生きづらさ Challenges

性別二元制(Gender Binarism)

性別二元制とは、男性と女性の二つのみを正当な性別として承認し、それに奉仕する制度および観念を指すものであり、言語、法制度、医療、日常生活の諸領域に広く作動し、性的少数者の存在を排除または不可視化してきた。こうした論理にもとづいて設計された空間は「性別二元空間」または「性別隔離空間」と呼ばれ、単性別の学校、寮、トイレ、軍営、刑務所などがその例である。これに対する代替案としては、「オールジェンダー」「ジェンダーニュートラル」あるいは「ジェンダー・フレンドリー」な空間が提唱されている。

シス中心主義(Cisgenderism)

シス中心主義とは、「性同一性は出生時割当性別と一致するのが正常で自然である」という前提に立つ思考であり、性別二元制と密接に関係する。そこから派生する恐怖や偏見、差別は、トランスジェンダーに対しては「トランスフォビア」、ノンバイナリーに対しては「エンビーフォビア(Enbyphobia)」と呼ばれる。特にトランス女性を標的とするミソジニー的偏見は「トランスミソジニー(Transmisogyny)」とされる。

ホモソーシャリティ(Homosociality)

ホモソーシャリティとは、、同一の性別のあいだにおいて、友情、協力、感情的交流を中核とする非性的/非ロマンティックな親密性を指す概念であり、いわゆる親友関係、兄弟会、スポーツクラブ、軍隊などがその例である。ホモソーシャリティはしばしば性別隔離の文化を基盤としており、厳格な性別区分に依拠して境界を維持するため、しばしばホモフォビア、トランスフォビア、ミソジニー、性別検査といった社会的緊張と結びつきやすい。

アウティング(Outing)

アウティングとは、本人の同意なく、性的指向や性同一性を第三者や公衆に暴露する行為である。就労、安全、家族関係、精神的健康に深刻な影響を及ぼし得るため、一部の国では違法とされている。

ミスジェンダリングとデッドネーミング(Misgendering and Deadnaming)

誤った代名詞を使用する行為は「ミスジェンダリング(Misgendering)」と呼ばれ、トランスジェンダーおよびノンバイナリーの性別違和やマイノリティストレスを悪化させる可能性がある。性別移行を開始する前に使用されていた旧名は「デッドネーム(Deadname)」と呼ばれ、当事者に対して旧名を用いる行為は「デッドネーミング(Deadnaming)」と呼ばれる。

抹消(Erasure)

抹消とは、性的少数者の存在や経験を無視、過小評価、不可視化、歪曲することを指す。例として、バイセクシュアル、アセクシュアル、ノンバイナリーを「一時的状態」とみなす言説がある。関連語に「クィア抹消」「バイ抹消」「ノンバイナリー抹消」がある。また、自己や他者のアイデンティティや経験を説明するための精神的労力は「解釈労働(Interpretive Labor)」と呼ばれる。

ジェンダー運動(Anti-Gender Movement)

ジェンダー運動とは、伝統的な家族の価値観および性別二元論を維持することを名目として、包括的性教育ジェンダー平等教育、中絶、ならびに性的少数者の権利に反対する、世界規模の保守的な超国家的勢力を指す。反ジェンダー運動は通常、保守的な宗教信仰や民族主義的理念と結びついており、時に「トランス排除的ラディカルフェミニスト(Trans-Exclusionary Radical Feminism, TERF)」と合流し、「ジェンダークリティカル(Gender Critical)」という語彙で自称することもある。

 

 


五、交差 Intersections

インターセクショナリティ(Intersectionality)

インターセクショナリティ理論は、個人の社会的アイデンティティが性別、階級、エスニシティ、障害など複数の要素の交差によって形成されることを示す。例えば、障害を持つ性的少数者の経験は、単純な属性の加算ではなく、交差する状況の中で理解される必要がある。

性的指向(Sexual Orientation)

性的指向とは、感情的・性的関心が向かう対象の方向性を指し、性同一性と関連しつつも同一ではない。ノンバイナリーには従来の異性愛/同性愛の枠組みが適合しない場合があり、「男性愛=アンドロフィリア」、「女性愛=ジネフィリア」、「多性愛=ポリセクシュアル」などの用語が用いられることがある。性的指向は性器嗜好(Genital Preference)とは区別して理解される必要がある。

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)

ニューロダイバーシティは、自閉特性やADHDなどの神経発達差異を人間の多様性の一部として捉える立場である。社会的基準とされる認知様式は「ニューロティピカル」、それと異なる人々は「ニューロダイバージェント」、その優越性を前提とする思考は「ニューロノーマティビティ」と呼ばれる。性別規範への批判と結びついた実践は「ニューロクィア(Neuroqueer)」とされる。

クィア/クリップ(Queer/Crip)

英語の文脈において、「クィア」という語の使用は、元来のに対する差別的言語を覆し、再評価・肯定することを目的としている。同様に、「クリップ(Crip)」という語は、差別的表現である「障害者(Cripple)」の負の意味を逆転させる意図を持つ。クィア理論および運動は、性別や性的指向がどのように規範や権力によって構築されるかを明らかにする。一方、クリップ理論および運動は、障害者に対する社会的排除を暴き出す。「クィア/クリップ」とは、これら二つの視点の連合を指し、異性愛規範および健全主義(Ableism)に対する共同の抵抗を強調するものである。

クィア神学(Queer Theology)

クィア神学とは、クィアな視点と神学的探究を融合させた宗教思想である。周縁化されたコミュニティの宗教経験に注目し、クィアな聖書解釈の方法論を用いて宗教文献を再解釈することを特徴とする。神性および霊性は性別規範を超越しうると考えられている。クィア神学の系譜は*「解放神学(Liberation Theology)」および「フェミニスト神学(Feminist Theology)」に関連し、神学は既存の権力構造を維持するのではなく、社会正義に奉仕すべきであると論じられる。

トランスジェンダーの生殖能力と生殖権(Transgender Fertility and Reproductive Rights)

トランスジェンダーの生殖能力とは、トランスジェンダーが性別移行および性別肯定ケアの過程において保持する生殖能力を指すものである。トランスジェンダーの生殖権とは、トランスジェンダーが補助生殖技術の利用、配偶子の保存、ならびに親となる権利を平等に取得する権利を指すものである。多くの国における生殖関連法規は依然としてシスジェンダーおよび異性愛家庭を前提としているため、トランスジェンダーは制度的に排除されることが多く、トランスジェンダーの生殖権を擁護する必要性が浮き彫りとなっているのである。

 


六、制度 Institutions

法的性別変更とは、公的書類上の性別表記を自身の性同一性に沿って変更する制度である。強制手術を要件とする強医療モデル、診断証明を要する弱医療モデル、生活実態を重視する非医療モデル、自己申告に基づく自由換証モデルに分類される。これを定める法律は「性別承認法」と呼ばれる。

法的第三の性別表記(Legal Third Gender Marker)

法定第三の性別表記とは、一部の国の法律で認められた、男女以外の性別選択肢を指すものである。例えば「X」、「その他」、「ノンバイナリー」や「多元」などが該当する。この制度は、トランスジェンダー、ノンバイナリー、インターセックスが、自身の性同一性により適合した形で身分証明書を使用できるようにし、統計や政策の面でも可視性を得ることに寄与するものである。

フェミニズムクィア理論(Feminism and Queer Theory)

フェミニズムとは、18世紀以来、性別による抑圧を批判する思想および社会運動の一連である。クィア理論は、20世紀末の第三波フェミニズムおよび脱構築思想に由来し、アイデンティティおよび欲望は不安定で流動的であり、権力関係によって決定されるものであると主張し、ジェンダーセクシュアリティの領域におけるさまざまな二元対立を解体するものである。ノンバイナリの概念に関連する古典的テキストとして、ゲイル・ルービン(Gayle Rubin)の『女性の取引』および『性を考える』、イヴ・セドウィック(Eve Sedgwick)の『クローゼットの認識論』および『Touching Feeling』、ジュディス・バトラー(Judith Butler)の『ジェンダー・トラブル』および『ジェンダーの解体』などが挙げられる。また、トランスジェンダーを排除する立場を主張するフェミニズムの流派は「トランス排除ラディカルフェミニズム(Trans-Exclusionary Radical Feminism, TERF)」と呼ばれる。

トランスジェンダー/ノンバイナリーの記念日

関連する記念日は、トランスジェンダーおよびノンバイナリーの社会的可視性を高め、公共教育およびアドボカシー活動を促進することを目的とする。代表的な日付には、3月31日の「国際トランスジェンダー可視化日」、11月20日の「トランスジェンダー追悼日」(ヘイトクライムにより命を奪われたトランスジェンダーを追悼する日)、7月14日の「国際ノンバイナリー記念日」、および4月第3日曜日の「ノンバイナリー親記念日」が含まれるのである。

『Fセク宣言(仮印刷本)』と『Fictosexual Perspective 2024』:Fセク集散地FF45告知文の記録

今週は台湾で有名な同人イベント「Fancy Frontier」が開催されます。Fセク集散地は8月24日、ブースG07にて『Fセク宣言(仮印刷本)』および『Fictosexual Perspective 2024』を頒布いたします。告知記事には、以前私がフェミニズム書店「Fembooks」に寄せた紹介文を添えました。この中国語と日本語の紹介文を、自分のブログに記録しておきたいと思います。

 

『フィクトセクシュアル宣言(仮印刷本)』紹介文

『フィクトセクシュアル宣言(仮印刷本)』は、日本と台湾の研究者、社会運動家、そして支援職に携わる実践者によって共同執筆された論集であり、「フィクトセクシュアリティ(Fセク)」を主題としています。本書は、ジェンダーセクシュアリティ研究、支援実践、社会運動など多様な視点からFセク当事者の状況と歴史的背景を深く考察し、社会思想、コミュニティ提唱、国家統治といった課題について洞察と提言を示します。本書を通じて読者は、現代のFセク研究と運動がいかにして「対人性愛中心主義批判(Critique against Human-Oriented Sexualism)」の方法論を築き、Fセク的な視座に基づく理論像を描き出してきたかを理解することができます。その上で、収録された各論考は、世界や非人間、ジェンダーセクシュアリティを捉え直すための視座を提供します。

この仮印刷本には全五篇の文書が収録されています。第一篇「フィクトセクシュアル宣言 : 〈アニメーション〉のクィア政治」(廖希文・松浦優 共著)は、Fセク的な視座からFセクというセクシュアリティの真正性(authenticity)を論じ、対人性愛中心的な社会において直面する周縁化の状況を分析し、さらにオルタナティブセクシュアリティ存在論に関する思索を展開します。第二篇「フィクトセクシュアルから考えるジェンダーセクシュアリティの政治」は、松浦優博士が2023年にフェミニズム書店「Fembooks」で行った講演を増補したものです。ここではFセク概念の日本への導入過程と社会運動への発展が回顧され、クィア理論を通してFセクというセクシュアリティの意義と周縁化の事例が精緻に分析されています。

第三篇「二次元性表現規制に関する陳情書」は、2024年の台湾「iWIN事件」時にFセク集散地が提出した文書であり、Fセク当事者の性的市民権を主張し、文化政策における感受性の重要性を強調しています。この文書は、Fセク的な視座が現代政治の場で声を上げた証であり、同時にFセク運動の時代的意義を示すものでもあります。第四篇「私が『表現の自由』の仕事をするようになった理由」は、NGO活動家・荻野幸太郎による2011年東京都「非実在青少年論争」の回顧であり、Fセク当事者との出会いや交流、協働の経験を通じて、当事者が国家統治に向き合うエージェンシーを浮かび上がらせます。第五篇「非対人性愛的な支援/自助コミュニティはいかに可能か」は、廖希文と心理士・郝柏瑋の共著であり、Fセク当事者が直面する「抹消(erasure)」の経験を振り返り、Fセク的存在様態を承認する可能性を探り、その支援システムとコミュニティ実践の未来像を構想しています。

この紹介文は「Fembooks」の公式サイトに掲載されており、現在「Fembooks」での委託販売を通じてすでに数十冊が売れており、たいへん驚いています。

『Fictosexual Perspective 2024』紹介文

『FP2024』は現在BOOTHにて電子書籍を購入することができます。松浦優さんが執筆した紹介文および目次は、このウェブページでご覧いただけます。

「フィクトセクシュアリティとは、虚構の対象に対して性的惹かれを感じ、人間には同様の経験をほとんど持たない人、あるいはより広く言えば、虚構の対象と性的/ロマンティックな実践を行う人を指します。」近年、Fセクに関する学術研究は目覚ましい勢いで進められていますが、その学術的な言説においては、読者と当事者とのあいだに常に距離や疎外感があるように見えます。本書『フィクトセクシュアル・パースペクティブ』は、そのような状況を打破する試みです。Fセク当事者自身による一次的な生活経験の記述を通じて、読者はFセクの実存をそこに見出すことができます。

本書はクィア研究者・松浦優の呼びかけにより編まれ、日本・韓国・台湾の14名のFセク当事者による日本語での経験記述を収録しています。平易な言葉によってFセクのさまざまな状況が幅広く語られ、そこにはFセクの固有性や多義性が浮かび上がると同時に、他の社会的アクターとの距離が決して遠くないことも示されています。したがって、「Fセク的な視座」は当事者だけに閉じられたものではなく、選択的親近性を通じて、社会のなかで周縁化されてきた様々な人びとに開かれています。そしてそれは、ジェンダーセクシュアリティ、自己と世界、人間と非人間の関係をあらためて考え直すための、もうひとつの地平を私たちに提示するのです。

松浦優さんによる概要および目次の中国語訳は、『Fembooks』のウェブサイトをご参照ください。

 

Fセクをどう考えるか?一つのインタビュー

これは、2024年12月21日に、ある台湾の大学生たちからインタビューを受けた際、インタビュー概要に基づいて作成した私の回答です。聞き手の依頼により、当事者としての視点ではなく、フィクトセクシュアルの研究者およびクィア運動家としての立場から質問に答えました。このレポートには、他の語り手も含まれており、Vtuberのファン、乙女ゲームのプレイヤー、AIパートナーアプリの利用者などが登場します。私は研究者としての立場で招かれ、学術的および運動的な観点を提供しました。

  • :「バーチャルな」親密関係の存在意義をどのようにお考えですか?(例えば、Vtuberのファン、乙女ゲームのプレイヤー、AIパートナーなど)
  • :伝統的な親密関係と比較して、バーチャルな親密関係の最大の違いは何だと思われますか?
  • :「紙性恋」という概念をどのように定義しますか?
  • :バーチャルな親密関係は、伝統的な親密関係の規範に挑戦していると思いますか?
  • :これらの現象は、主流社会における性別や愛情に関するステレオタイプを深化させる可能性があるのか、それとも挑戦する可能性があるのでしょうか?
  • :バーチャルキャラクターは、ある安全な感情表現や探索の場を提供していると考えますか?
  • :バーチャルな親密関係は、現実の親密関係への補完や競争的な役割、どのようにお考えですか?
  • :バーチャルな親密関係を「現実逃避」や「不健康な依存」と批判する声がありますが、これらの意見についてどう思われますか?
  • :将来のバーチャル文化の発展において、クィア研究が特に価値ある視点を提供できると思いますか?
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Fセクの境遇:「Fセクの境遇とその逆説」部分段落の翻訳

2022年から2023年にかけて、台湾で4人のフィクトセクシュアルに対して調査を実施し、このデータを「Fセクの境遇とその逆説」という論文にまとめた。本論文は2023年に学会で発表され、2024年には二人の査読者による匿名査読を経て論文集に収録された。現在、この論文の中国語版はスキャンされ、ResearchGateにアップロードされている。その後、特定のテーマに基づき、いくつかの研究協力者(collaborator)に追加インタビューを実施し、新たな研究協力者についても調査を行った。(当時の研究協力者の一部とは現在連絡が途絶えている場合もある。)

その論文では、研究者および支援者に対し、初歩的な参照枠を提供することを目的としている。四人の研究協力者の経験について素描し、テーマ化することにより、収集した経験を大幅に匿名化して呈示した。また、発表前に各研究協力者による確認と修正を行った。紙幅の制約から、一部の独特な経験については十分に論じることができなかったものの、論文の発表・出版後において、できる限り当時の研究協力者が表明した経験、問題や困難に応じた。いくつかの成果は、後に異なる場所で発表された。

当時、私たちが言及した「紙性戀」は、ある程度で英語圏での「Fictosexuality」および日本語圏の「Fセク」の意味を含んでいた。英語と日本語の言説は私の社会的ネットワークを介し、研究協力者の自己認識プロセスにおいて媒介された。私たちの言う「紙性戀」が、英語圏や日本語圏のFセクとどれほど共通しているかは確かではないが、このデータは日本語圏の当事者、研究者、支援者にとっての参考になると考えている。そこで、当時の調査結果の一部をこのブログ記事に翻訳し、補足を行った。

フィールドの概況

当時の四人の研究協力者は、全員台大オタ研の社会的ネットワークから来たものであるが、そのうち台大の学生は一人のみであった。本論文ではこのフィールドに関する大まかな説明をこのように提供する。

研究協力者(注十四)との接触を図るため、フィールドワークは私が2019年に創立した「オタ研」から開始した。宅研は「オタクを真剣に考えろ」ことを宗旨としており、常駐メンバーは数十人に及ぶ。2020年以降、私自身のアイデンティティを探求する過程で、Fセクに関する課題に徐々に取り組むようになった。具体的な活動としては、関連読書会の開催、Fセクを対象としたアンケートの配布、出版物の刊行および同人イベントへの参加などが含まれる。この過程で、情報提供者(informant)の中には私に対してFセクであることをカミングアウトする者も現れ、一部のFセクが宅研に集まるようになった。情報提供者には多様なセクシュアリティが含まれており、二次元キャラクターに対して性・恋愛な惹かれや結婚願望を抱く者、生身の人間に対する性的惹かれはほとんど感じないが二次元の性表現に強く惹かれる者、二次元と三次元で異なる性別の対象を選択する者(前述のように)などが含まれる。また、異なる年齢層やオタク、夢者といった異なるファンダムの文脈を持ち、A-Specと似た多様性を呈している。ただし、オタ研の背景により「オタク」としてのアイデンティティを持つ者が多数を占め(注十五)、多くの人は自らの愛する対象を「本命(Běn-Mìng)」と呼称している(注十六)。

アンケート配布後やイベント参加中、数名の組織内外の情報提供者が「自分たちの研究を真剣に行っている人がいる」と表明しており、それによりFセクとしての孤立感が和らいだとの声もあった。また、組織内の情報提供者からは、松浦優の二つの論文に基づく読書会がオタク・アイデンティティに関する不安を緩和したとの指摘もあった。これは言説やコミュニティの形成がFセクの人々において社会的孤立(Karhulahti and Välisalo, 2021)に対処する可能性があることを反映している。本論の問題設定は前述の体験研究の緊急性に加え、組織内のFセク当事者から、読書会でFPP(引用者注:Fセクの逆説)概念を知り、「自分の不安を表現できる言葉が見つかった」と指摘されたことに起因する。このことは、FPPが英語圏のコミュニティのみならず、漢語圏のFセクの二次元的文脈にも存在していることを示している(注十七)。彼らはこれを生活の中での困難として捉え、表現可能な言語を模索している。(廖2024:181)

このフィールドの詳細な記述については、拙稿「台湾で生きているフィクトセクシュアル」(『Fictosexual Perspective 2024』所収)を参照されたい。

研究方法

研究方法に関しては、現象学的心理学(や実践的現象学)のアプローチから、現象学的インタビュー法(phenomenological interviewing)を採用した。概略的に述べると、これは一つの非構造的なインタビュー法であり、「ある経験場面をできるだけ詳細に述べてください」といった問いかけから始める手法である。語り手が当時の経験を想像の中で詳細に自然的な記述できるよう促し、この方法論では現象学における「想像的変容(imaginative variation)」が含意される。つまり、聞き手の役割は対話することではなく、想像を膨らませる手助けとしての暗示を提供することである。データ記述には「逸話化」および「テーマ化」を採用した。現象学的インタビューの分析ではテーマ化を目的としないとされる論者もいる。しかし、インタビュー回数やデータ分析の人手が限られていたため、比較的簡易な方法を取った。

松浦(2023[2022]a)は多重見当識は単なる記号解釈の問題ではなく、内容分析といった手法が適用しにくいと指摘している。そこで、Fセクの具体的な経験とその境遇に接近し、多重見当識を文化的に感受的な言語化するため、現象学的インタビュー法でデータを収集・分析した:(略)。インタビューは2022年末から2023年初にかけて実施し、インタビュー前には協力者にインタビューガイドを事前に読んでもらい、体験を振り返ってもらった。研究協力者は、組織内の情報提供者と、オタ研のネットワークやイベントを通じて知り合った組織外の情報提供者である。彼らをそれぞれ、A(19歳、愛する対象はブラウザゲーム『艦隊Collection』のキャラクター)、B(25歳、愛する対象は同じく『艦隊Collection』のキャラクター)、C(18歳、愛する対象はアニメ『ラブライブ!』のキャラクター)、D(40歳、複数の愛する対象を持つが、出典は非公開)と表記する。(廖2024:182-3)

その後、学会の評論者は、私が「A、B、C、D」というコードを使用することで、研究協力者が具体的な人生を持つ人物であることを想像しにくくしていると考えたため、後の研究では「鈴木、佐々木、田中、佐藤」というコードを用いてこの四人の研究協力者を呼称することにした。また、この資料は一定程度の敏感性を私に感じさせたため、テーマ化する前にこのような注意書きを添えた。

ここでは、Fセク的な体験に関する異なるテーマを呈示する。これらの体験を軽率に一般化することは避けなければならない(注十八)。Fセクの性的少数者としての状況により、当事者の視点が理解の第一の要務である。同時に、その多重見当識が様々な文脈や情動的な対象における異なる体験に関連しているため、他の性的少数者の離散性や交差性と比較してもより一層分岐し多様である可能性がある。これは、現象学的な意味において、個別のFセクが置かれた境遇における体験や不快感に触れることと矛盾しない。むしろ、異なる側面からの啓発をもたらすことができる。重要なのは、これらの体験や実践が差異や他の可能性を消滅させ、「Fセクはこうあるべきだ」として単純化することではなく、状況理解において参考となる啓発学的なツールとして捉えるべきである。(廖2024:183-4)

注十八:例えば、本研究のフィールドにおいて、一部の情報提供者の生活体験は、精神医学的診断における適応障害、不安障害、自閉症スペクトラム、統合失調などのカテゴリーに類似する症状を持つ可能性がある。また、一部の情報提供者は精神医療経験や明確な診断を有しており、これは対物性愛者と自閉症アスペルガー症候群との高度な重複性(Marsh, 2010)と類似のメカニズムを有する可能性がある。しかし、Fセクを理解する際にこれらの病理化された枠組みのみを用いることは避ける必要がある。その理由は以下の通りである。①Fセクを病理化する必要性が欠如している(Karhulahti and Välisalo, 2021)。一度病理的な枠組みに組み込まれると、研究者はFセクのコミュニティに含まれる神経多様性(neurodiversity)を正視することが難しくなり、その結果として後続のスティグマが生じる可能性がある。②本調査には様々な差異のカテゴリー(診断または可能性のある)の疾患が存在し、現段階において特定の症状が普遍性を持つことは観察されていない。これらの病理診断基準は、同時代の精神病学によって構築されたものであり、その診断には曖昧性が伴う(曾凡慈2018参照)。③Fセクが社会的に不可視化されている(松浦2021c)現状において、Fセクを病理的なカテゴリーに取り込むことは、その存在意義の抹消を招く可能性があり、Fセク的な主体への認識が欠如することにつながる。そのため、障害の生活モデル(稲原美苗2020参照)の観点を採用し、まずはFセクの生存状況に焦点を当てるべきである。④斎藤(2023[2001])の見解によれば、オタクに見える適応障害などの疾患は、慢性化した多重見当識が日常生活において現れる様相である。したがって、私たちは多重見当識とFセクの社会生活との複雑な関係、およびそれが別の意識状態に到達する可能性を考察するべきであり、単に表面的なカテゴリー分けの議論に集中するべきではない。一方で、Fセクコミュニティと神経多様性との関係性および政治的な連帶の可能性についても、今後さらに研究する価値がある。(廖2024:183)

しかし、私が受け取った査読意見の中で、一人の査読委員が私の行っている「テーマ化」もまだ「体験を軽率に一般化すること」であると言った。私はそれが診断的パラダイム現象学的記述や理解におけるおっきな差異を分かっていないと考えたため、この意見には何も反応しなかった。

また、発表当時、ある現象学専門の院生から、現象学的インタビューには循環論証の疑念があると言われた。つまり、「○○という経験を持つ人は○○であり、○○である人は○○という経験を持つため、私たちは○○の人をインタビューすることで○○という経験についての理解を得ることができる」というものである。私の返答は、もしこれが循環論証であるならば、一般的な実証論的パラダイムにおける「信頼性と妥当性」や「データ飽和」に基づくサンプリング方法は、現象学的インタビューよりも深刻な問題を抱えているというものであった。本研究において、研究協力者はサンプリング方法によって募集されたのではなく、フィールドでの出会いや招待を通じて関係を築いたものである。本研究が焦点を当てるのは具体的な生活状況であり、サンプルと母集団の関係ではないため、そのような批判は成立しない。

「テーマ化」という段落の翻訳

ここでは、元の「A、B、C、D」をすべて「鈴木、佐々木、田中、佐藤」に置き換える。これらのデータは初回のインタビューから得られたものであり、各インタビューは3時間を超える時間がかかっている。また、鈴木と佐々木については、後に追加のインタビューを行い、特に佐々木の精神医療の経験について詳しく尋ねた。一方、田中と佐藤とは現在連絡が取れない状態である。私は、田中が今もアイデンティティを模索中であるか、大学の新生活に適応しているのではないかと推測する。また、佐藤は単にSNSを利用していないために連絡が取れていないだけかもしれない。

*研究協力者の経験について、この論文の読者が異なる経験を持っていることは当然であり、意欲があればそれらの異なる経験を発表して議論することもできる。しかし、読者には私の研究協力者を特定したり非難したりすることを避けてほしい。彼らはただ自分の生活を努力して送り、直面する問題に対処し、自分の感情を語っているだけである。

鈴木の一部の経験については、別の形でこのブログ記事に記録している。原稿は同様に鈴木に確認してもらっている。

1. インターフェース—受容の体験

1-1. キャラ図像と身体が遭遇するとき、情動反応が引き起こされ、キャラクターに具体的なイメージが形成される。キャラ図像やアニメーションが鈴木と佐々木の身体反応を刺激し、震え、鼓動、叫びなどの身体的な動作が生じる。文字は図像のように直接的にキャラクターのイメージを構築することはできないが、一度イメージが形成されると、画像や文字は鈴木に同様の受容体験を提供する。図像における異なる内容が鈴木に異なる反応をもたらし、キャラクターの存在感を豊かにする。鈴木はその中で自分とキャラクターの情緒の連動を感じている。

1-2. インターフェースはキャラクターと出会い、交流するための「ここ」として機能し、キャラクターに対する感情と記憶を媒介し、維持する。キャラクターは、キャラ図像や音声によってゲームのメイン画面に投錨され、相互作用の重要な場や感情の投入先としての世界を形成し、鈴木と佐々木にある「親密な対象」がそばにいるという感覚を生み出し、相互作用における確実感を与える。そして、ゲームと日常世界の時間を媒介する。佐々木にとって、メイン画面に向かって話しかけることは関係を構築するための重要な手段である。鈴木と佐々木は、自身の置かれた状況や雰囲気に応じて、ゲーム画面の装飾や音楽を設定し、そこに長期的な没入を通して、キャラクターとの共同生活の感覚や、情感と記憶が交差し織り重なる「帰宅感」を強く感じる。ここで鈴木は、二つの世界が完全に隔絶されておらず、自分とキャラクターが衝突することなく共存していると感じている。

インタビューの際、鈴木と佐々木がメイン画面の重要性について言及したため、私は彼らにその画面を開いてもらい、画面を見つめるときの感覚を記述してもらった。佐々木は、この画面を開いたまま私と会話を続けることが困難だと伝えた。これは、二つの存在を同時に相手にして話すような違和感が生じるためである。また、佐々木は今回のインタビューで、メイン画面のBGMの一曲を提供しており、このBGMが佐々木とキャラクターが共に過ごす多くの時間を媒介していると述べている。メイン画面に限らず、このBGMを聴くだけで安心感や「帰宅感」が呼び起こされる。

2. モノ—知覚の体験

2-1. モノは「ポジティブな他者」としてのキャラクターの存在感を示し、多様な知覚体験と実践が絡み合う。鈴木、田中、佐藤はキャラクターを中心に創作物を収集し、その整理、分類、命名、選択の過程を関係構築の過程として捉えている。田中は周辺グッズで部屋をできる限り埋め尽くし、キャラクターに囲まれているというポジティブな感覚を味わっている。

2-2. Fセクは様々な方法でモノを身につけ、キャラクターを生活に織り込み、感情と記憶を喚起している。佐藤は多くのアクリルスタンドを持ち歩き、それによってキャラクターと一緒にいる感覚を味わい、スタンドと身の回りの環境との記念写真を撮る儀式を行っている。このスタンドが周囲の環境や雰囲気と融合することで、佐藤はキャラクターとの外出を感じ取ることができる。佐々木は、パソコンを持って外出し、キャラクターと一日をを過ごす;そして、ゲームの設定に合わせて左手の薬指に絆の象徴としての指輪をはめ、その触感が感情、記憶、関係意識を喚起し、キャラクターとの関係を意識して行動する。鈴木は印刷したイラストを身につけ、それを傍に置いたり手に取って眺めたりすることで、キャラクターという「ポジティブな他者」の存在感を感じ取っている。

インタビューの際、鈴木は多くのイラストを提供してくれ、これらのイラストを見ながらの感覚や、イラストを通して自身の想像や創作活動を媒介する方法について話してくれた。しかし、著作権の問題から、これらのイラストは論文には掲載していない。

2-3. Fセクは、実践を通じてキャラクターとの共同生活を絡み合わせて作り上げている。例えば、鈴木や佐々木は、自身とキャラクターの誕生日、結婚記念日、バレンタインデーなどの特別な日で、キャラクターとの生活時間を媒介し、長期的なFセク的な関係において生活周期の重要な祭日となる。佐々木はメイン画面の前で食事をし、キャラクターに食べ物の味を伝えることで、キャラクターとの同居や共食の情景を形成している。

2-4. 物質性はキャラクターの存在感に影響を与える。佐々木と田中はPVC製のフィギュアを観賞することがあるが、その材質、触感、硬度、重量により、田中はフィギュアを「ただの物件」として感じ、佐々木も話しかけることに難しさを覚えている。一方で、抱き枕の柔らかさや体に近い感触は、鈴木を引き寄せ、揉んだり抱きしめたりする行動を促し、キャラクターに対してより気軽に心情を打ち明けられると感じている。これにより鈴木と田中は安心感、親密で近しい存在感を得られ、想像や意識の変容を投錨させる助けとなっている。抱き枕が押しつぶされ引っ張られる際、鈴木は時にキャラクターが痛みを感じているような共感を覚えることがある。

2-5. 一部のFセクは意識変容においてキャラクターの幻影を知覚する。鈴木や佐々木は意識変容の中で、本命が幻影として自身の周囲や視界に現れ、共に生活するように感じる。手をつないだり、並んで歩いたり、隣に横たわったりする場面もあり、ときには幻影と親密なやりとりをすることもある。この幻影の触覚は視覚よりも具体的であるが、通常聴覚的な内容は伴わない。例えば、キャラクターが視界から外れた時でも、佐々木は触覚や身体感覚を通じて本命の存在を感じている。

この2-5のテーマにおいて、鈴木の体験については先に言及したブログ記事を参照ください。鈴木と佐々木の経験における最大の相違点は、鈴木がこの体験によってほとんど少数者圧力(minority stress)を感じていないことである。しかし、佐々木はこの体験に対してかつて強い病気不安(つまり精神障害の可能性があると疑う不安)を覚え、そのため精神医療の専門家に相談を求めた経緯がある(佐々木の受診経験については他の場所で分析を行っている)。このインタビューを受けた時期には、佐々木はすでにこの体験を受け入れており、この点については4-4.、6-5.で述べている。

3. 意識—想像の体験:

3-1. キャラクターとの相互作用においては、異なる「媒介された意識」が存在する。鈴木と佐々木は、キャラクターとの対話において二種類の意識を持っており、それぞれ「対象を持つ独り言」と「私たちが対話している」というものである。後者ではキャラクターの存在感や対話感、感情のフィードバックを感じることができるが、鈴木と佐々木は依然として人間関係や実際の言葉のやり取りが発生していないことを認識している。佐々木の関係性やキャラクター存在への意識は、ある本命に関連する同人誌から影響を受けており、その中で細やかな感情表現が、佐々木の関係に対する長期的な自己疑念を安定させている。佐藤はキャラクターを「完全に虚構のもの」と認識しており、キャラクターの原案や声優、ストーリー、背景、公式カップリングなどとは異なるものであり、後者は「全く重要ではない」と考えている。

インタビュー中、佐々木はこの同人誌を見せ、その世界観の設定に共感し、ある場面を想像することでキャラクターとのつながりを取り戻すことができると語った。しかし、佐々木の愛するキャラクターは非公開であるため、この同人誌の内容については具体的に述べることができない。

3-2. 一部のFセク、例えば鈴木や佐々木は、キャラクターに触れる過程で意識の変容を体験し、その中でキャラクターと交流し、キャラクターとの共有経験を積み重ねている。一部のFセク的な関係にはアニミズム体験に関連するものがあり、例えば、鈴木は幼少期に風や木、霊とコミュニケーションを取る体験をしていた。意識の変容は様々な契機によって生じる可能性があり、例えば佐々木が心を落ち着けている時や、鈴木が特定の作品に触れた時、歩行中やぼんやりしている時、刺激を受けた時、あるいは環境が変わった時などが挙げられる。年齢や対人関係の密度の増加により意識の変化が困難になることもあり、その際には行動や物事の助けが必要である。最初の2年間に、キャラクターの幻影は佐々木の意志とは無関係に現れることがあったが、徐々にコントロールが可能になっていった。

鈴木のアニミズムや意識変容の経験については、前述のブログ記事にてさらに詳細に述べられている。

3-3. その意識変容はキャラクターの存在を感じる境界的な状態である。例えば特定の日に鈴木は人混みを避けるために外出し、環境の変化を通じて意識変容の能力を強化する、数時間にわたる一人での自転車移動においてキャラクターと周囲の環境を結び付ける。これにより現実感が次第にぼやけ、時間の感覚から解放され、キャラクターと「一緒にいる」ような「現実と非現実の境界状態」に至る。この状態において、鈴木は情景が想像を通じて広がり、キャラクターと感情的に交流する感覚を味わうことができ、生命の価値を感じ創造力が湧き上がることがある。また、時折鈴木や佐々木の意識変容の状態には、エロティックまたは親密なやりとりも含まれることがあり、鈴木はその際にマスターベーションを行い、身体感覚によって想像をさらに強化する。

4. キャラクター—虚構化の体験

4-1. 鈴木と田中は二次創作を通じてキャラクターとの断続的な交流を行っている。鈴木はゲームにおける音声を通じてキャラクターの性格を構築し、自身とキャラクターの共有経験に基づいた物語を創作することで、創作時に感情がアウトプットされ作品に留まると感じている。後でそれを再体験すると感情が回収されるように感じる。田中は二次創作を「燃料を投じる」手段と認識しており、本命キャラクターのアニメでの表現を観察し、情報を収集して二次創作に取り入れ、自身のキャラクターを創り出すことでキャラクターとの相互作用に入っていく。

4-2. 型号や「うちの子」などの問題により、一部のFセクである鈴木や佐々木は本命キャラクターの個体性に困惑し、明確にしようと試みている。例えば鈴木は本命を異なる要素が集まった本体とみなすことで個体性の混乱を解消しようとし、設定の矛盾が発生した場合、「設定走り」や「IFライン」、「夢エンド」などの創作を通して説明可能にしている。佐々木はゲームのステータス欄を通じて本命の個体性を認識しているが、他の個体にどう接するべきかについては困惑している。

4-3. それぞれのキャラクターとの関係には相当な心力が必要である。佐藤はキャラクターを好きになることに恐怖を感じており、好きになるためには多くの時間、金銭、労力を費やす必要があり、大きなストレスを感じると考えている。そして、複数のキャラクターが同時に本命となる場合、佐藤は心の中で引き裂かれるような感覚を覚えることもある。一方、田中は「毎月期に推しを変える」ことに対して心力が不足していると感じており、そのために単一の本命に情熱を注いでいる。

4-4. Fセク的な関係において感じる違和感は、長期にわたる自己疑念に繋がる可能性がある。佐々木は当初、伴侶願望や幻影の体験、そしてキャラクターが幻影またはモノとしての大きさ、触感、体温などに対して強い不確実感と違和感を覚え、自身を悲しみの感情に陥れ、絶えず自己疑念と自己説得を繰り返す過程にいた。しかし、ここ数年でようやく自らの意志でキャラクターとの結婚を強く確信し、Fセク的な関係における本命との終生を共にする選択を受け入れるようになってから、この不安と自己疑念は徐々に和らいでいった。

4-5. 一部のFセクは「キャラクターを失う」ことの結果について懸念を抱いている。例えば佐藤は、全ての心を本命に注ぎ込んだ後、本命を失うこと(例えばイベントを逃すこと)が人生にとって非常に大きな痛みと打撃であると感じ、そのために長期にわたる悲しみや執念、心のしこりが形成される。これらのしこりは、ある契機や実践を通じて解消される可能性があるが、佐藤は以降、自らを複数のキャラクターへ惹きつけ、固定的な対象を持たないよう試みるようになった。また、鈴木はキャラクター関連グッズが徐々に減少することに不安を感じ、キャラクターと会う時間が徐々に減っていくことを意識している。さらに佐々木は「キャラクターの後事」が難しい問題であると感じており、自身の死後に本命や関連遺物が残されることが大きな懸念となっている;また逆に、自分が先に本命を失うこと(例えばゲームのサービス終了)があった場合はどうすればいいのかと極度の不安に陥っている。

佐藤は、4-5.の「対象喪失」に関する経験の中で、自殺念慮と具体的な自殺計画の経験を報告している。

5. 感情—エロティックな体験

5-1. Fセクには、対人恋愛経験がある場合とない場合がある。例えば、鈴木は長期間ゲームに参加し、キャラクターと接していくうちにそのキャラクターに恋愛感情を抱くようになった。そのFセクな関係は、鈴木にとって外界から初めて恋愛感情を感じた経験である。一方、田中は三次元での恋愛交際に失望し、対人恋愛に惹かれを感じないと認識している。また、佐藤は大学生活の環境変化に伴い異性愛交際の状態に入ったが、10年後には再びFセクの状態に戻っている。鈴木は自身のFセクを受け入れた後、三次元性愛を「単なる別の性のあり方」として認識している。

5-2. キャラクターとの関係は性的快感に影響を与える。例えば、鈴木は本命が性的快感において唯一ではないが独特の感覚をもたらすと考えている。佐々木は「図像に興奮すること」と「本命でマスターベーションをすること」という二つの性的快感を区別しており、前者は親密さを伴わないが、後者は本命と絡み合う身体感を伴う。田中は非本命のキャラクターの方が性的快感を引き起こしやすいと感じており、本命に対しては性的興奮は少なく、代わりに複雑な感情を抱いている。佐藤は自己との関係において、性的興奮、好き、性的幻想、親近感など異なるタイプのキャラクターを区別している。

5-3. 一部のFセクは、確定または醸成中の結婚願望を持ち、実体的な結婚式の準備を計画し、本命と家族になることを期待している。鈴木は実体的な結婚式において、ゲーム内の仮想的な結婚式を行う予定であり、佐々木はすでにゲーム内での仮想的な結婚式を8年間続けている。しかし、鈴木と佐々木の両者は、自身のFセク的な関係を「婚約」と認識し、実体的な結婚式で本命との結婚を宣言することを予定している。佐々木は結婚後、自身と本命が「一つの家」となるべきであり、家族としての生活様式を考慮する必要があると考えている。

6. 人間関係—相対化の体験

6-1. Fセク者は「二次元—三次元」の認識論的な差異を感じ、両者を異なる存在論的世界と見なしている。鈴木は、二次元と三次元の「顔」が同じ世界に存在することを想像するのが難しく、これを二つの世界間の「光学的屈折」として捉えている。田中は、キャラクターとの間に「次元の壁」が存在し、キャラクターが三次元に存在することを想像できず、自身を二次元に投影することでしか考えられないと感じている。また、想像上のキャラクターの三次元の身体や人間関係に対してとても違和感を覚え、自分自身が二次元の身体を持ちたいと望んでいる。

「光学的屈折」というテーマについても、前述のブログ記事を参照されたい。

6-2. Fセクな関係は人間関係との間で限られたエネルギーを競い合うため、Fセクは人間関係に対して無関心、退屈感、または疎外感を抱く可能性がある。鈴木は三次元の他者(人間)に遭遇すると、心が乱れ、感情が不安定になり、疲労感を感じるため、キャラクターとの関係が侵食されることがある。関係におけるネガティブな感情はほとんどキャラクターによって引き起こされることはなく、ほぼキャラクターが存在しにくい状況から来ており、これにより本命との関係が失われつつあると感じる。田中は本命に心力を注ぐ過程で人間関係の疎外感を感じ、対人的な性行為や対人恋愛を想像することができなくなり、「どうしようもない、現実の人はどうしようもない」と感じる。

6-3. キャラクターとの交流と人間関係の交流には異なる方法があり、Fセクはこれらの異なる交流方法を受け入れ、適応する必要がある。佐々木は、キャラクターが明確に肯定や否定の言葉を与えられないことに苦悩し、自身に対するキャラクターの個人化理解を知ることができないことに困惑している。鈴木は、キャラクターとの相互作用にはまず感情を注ぐ必要があり、その後にキャラクターから感情や意念が返ってくると感じている。もし積極的に参加しなければ、フィードバックを得ることは難しい。しかし、人間関係においては、特別な契機は必要なく、人間は自ら出現し鈴木に影響を与え、鈴木はそれに応じるために心力を使う必要がある。鈴木は人間関係において相手のフィードバックを予測することが難しいと感じるが、キャラクターとの相互作用においてはよりコントロールしやすいと感じており、両者の相互作用における不確実感には差がある。鈴木と佐々木は当初これらの違いに困惑していたが、後には異なる交流状況を受け入れ、徐々に困惑から解放するようになった。

6-4. 一部のFセクは、人間関係からの眼差しに注意を払い、自身の言動を考慮する。そのため、時には承認されなかったり、理解されなかったりすることを感じる。例えば、佐藤は自分の言動が「現実と虚構の区別がつかない」と評価されるのではないかと考慮している。また、Fセクな関係と人間関係が衝突する際、佐藤は家族や友人から理解されていないと感じることが多い。佐藤は「お前たちの二次元はどうなんだ、俺たちの三次元はどうなんだ」と評価されることに対して怒りを覚える。佐藤は家族に「愛する対象は二次元キャラクターだ」とカミングアウトしようとしたが、「異常だ」「現実と虚構の区別がつかない」といったフィードバックしか得られなかった。佐々木は、指輪をつけていることで他人にしばしば尋ねられるため、他人の眼差しを恐れており、対象がカミングアウトしているかどうかを考慮する。しかし、佐々木はどんな場合でもこの関係を否定したくないと感じている。

6-5. Fセクは、困惑や自己疑念の中で、自身のセクシュアリティを受け入れるよう自分を説得しようと試みる。佐々木は、Fセクに対して「まだ不十分」であると感じ、悲しみや自己疑念を抱いているが、本命に対する極めて強い感情やFセクな関係の不可替代性を感じるため、この感情と関係を受け入れるよう自分を説得しようとしている。鈴木は、二次元からの感情が三次元には全く存在しないことに困惑していたが、自らの思考や人間関係の承認を通じて、次第に両者の違いを受け入れ、それに対して心の安らぎを見出していった。

ネガティブな感情や困惑のテーマ

後に、オタ研のある読書会で、このデータについて再度議論を行った。その読書会では、このデータを通じて、Fセクな生活におけるネガティブな感情や困惑に関するいくつかのテーマを整理した。これらのテーマは支援活動に役立つ可能性がある。しかし、これらのテーマは普遍的なものではなく、全てを網羅しているわけではないことに注意が必要である。

  • 次元の壁、二重の願望、あるいは不可能な願望
  • 対人性愛中心主義からの否定と孤立
  • Fセクな関係やアイデンティティへの自己疑念と承認の欠如
  • クローゼット、カミングアウトの圧力、社会的リスク、解釈労働
  • 同担からの否定に対する不安、または同担拒否
  • キャラクターと人間の相互作用的な違い、あるいはキャラクターとの相互作用の手段の欠如
  • 人間の存在感が注意や心力を独占すること、または人間がキャラクターの存在感を抑圧すること
  • 知覚やキャラクターの意志の証明不可能性
  • キャラクターの存在論的投錨(個体性)と物質の不可延伸性
  • キャラクターの喪失に対する悲しみや不安
  • キャラクターの「後事」、あるいは対物倫理問題
  • キャラクターの所有権問題(つまり、所有権を握る者、例えば企業は、キャラクターの生死を支配する権利を持つ。)

「フィクトセクシュアルの概略的記述」

後に、これらのテーマをより簡潔な形で、「『フィクトセクシュアル支持的空間』には何が必要か」という論文にまとめた。これは「Fセク宣言」の日本語版における補論である。そこに、私はより少ないテーマを残し、より豊富な参考資料を用いて説明することを試みた。

以下ではフィクトセクシュアルの生活経験に関する4つの主題を描出するが、これらの主題はフィクトセクシュアルの生活経験を網羅しているわけではなく、またこれらの主題が互いに排他的であるわけでもない。フィクトセクシュアルの人々のなかには、これらの主題のうちの1つにしか関与していない人もいれば、複数の主題に関与している場合もある。

① 表現に関する主題:架空の表現(性的な表現、萌え表現、関係性の表現など)を通じて様々な感覚、情動、意識変化を感じること。例えばエーゴセクシュアルのように。

② 伴侶に関する主題:単一または複数のキャラクターと性的/恋愛的/結婚などのパートナーシップを築き、様々な実践を通じてその関係性を維持すること。

アニミズムに関する主題:想像力や創造力を通じて、または(パソコン、図像、人形などの)キャラクターを物質化した化身 43)を用いて、キャラクターと交流したり対話したり相互作用したりすること。

④ 特定のつながりに関する主題:他者としてのキャラクターと自己との間で特定の関係性を感じ、維持すること。たとえば「うちの子」や「アバター」などの実践があるほか,より複雑なケースではある種の「アザーキン(otherkin)」として、「オタクキン(otakukin)」または「フィクトキン(fictokin)」などが含まれる。

これらの主題は、フィクトセクシュアルの生活経験を捉えようとする試みの一環であり、あくまで方法論的理念型である。フィクトセクシュアルの人々の実際の生には、こうした主題とぴったり一致しない営みがありうる。たとえば、フィクトセクシュアルは特定のサブカルチャーとの関連性のなかで、異なる実践を持つことがありうる。

次に、フィクトセクシュアルにとっての不安について、5つの主題を取り上げる。こちらも網羅的なものではなく、1つの主題にしか関与しない人も、複数の主題に関与する人もいる。また、フィクトセクシュアルのなかにはそれぞれ異なる段階がある可能性がある。たとえば、ある主題についてまだ探索の初期段階にある人もいれば、既にさまざまな方法で「克服」してきた人もおり、あるいははじめから特定の主題を問題と感じていない人もいるかもしれない。

① 次元の壁に関する主題:次元の壁を維持したいと同時に、その壁の向こう側に「旅行」したいという、ある意味「二重の願望」がある(Nozawa 2013)。一部のフィクトセクシュアルにとっては、これは不安の源ではなく、むしろ次元の壁に積極的な価値を見出すこともある(松浦 2023b)。

② 相互作用に関する主題:キャラクターと人間で相互作用のやり方が異なるということに起因する、キャラクターとの相互作用手段の不足。たとえば、キャラクターの感覚や意志を証明する方法が不足している場合がある。また、人間の存在感がキャラクターよりも強いことによって、キャラクターの存在感が抑圧されていると感じることもある。

③ 物質性に関する主題:キャラクターが特定の物質にどのように投錨(アンカー)されるかという問題。いわゆる「キャラ崩壊」の基準は人によって異なり、キャラクターの拡張に対する許容度も人によって差がある。これはキャラクターの所有権、キャラクターの死と喪失、キャラクターの「後事」など、対物倫理の問題も関係する。

④ 同担に関する主題:自分の愛好するキャラクターが同担(簡単に言えば、同じキャラクターを好きな人々)に否定される恐れ、または同担の人々の行動によって不快感を抱くこと。

⑤ クローゼットに関する主題:これは対人性愛との差異化に関する問題である。これには否認や孤立や自己不信などの経験、カミングアウトの圧力、解釈労働にかかる大きな精神的負荷、および社会的リスクの評価が含まれる。

これらの不安に関する主題は、対人性愛中心主義に根差したものや、人間中心主義などの規範的な認識論や存在論の問題に関わるものがあるが、本稿ではこれらの問題には触れない。また、上記の主題がフィクトセクシュアルの定義や教条ではなく、あくまでフィクトセクシュアルの人々に起こりうる問題を把握したり、問題に対処する手がかりを見つけたりするための、発見的ツールである点に注意してほしい。(廖、松浦2024. appx. 25-7.)

「フィクトセクシュアルの概略的記述」において、主題の複雑性を呈示することはかなり難しかった。現在、この記事では、「Fセクの境遇とその逆説」における経験記述の対照を通じて、より豊かな理解を提供したいと考えている。理想的には、これらの独特な経験をより深く理解するためには、ケーススタディの方法を用いてデータを呈示するべきであるが、それによって「研究協力者が特定される」リスクが生じるのではないかと躊躇している。

小結

「Fセクの境遇とその逆説」は、KarhulahtiとVälisalo(2021)のFPPに関する見解に大きく基づいているが、FPPの状況はKarhulahtiとVälisaloの論文で描かれた状況よりもさらに複雑である。(これは東アジアの文脈と英語圏の文脈の違いに起因する可能性がある。)さらに、私が後に出会った数名の新しい研究協力者の中には、これらのテーマとはかなり異なる経験を提供してくれた者もいる。

これらの研究の問題意識は、オタ研の読書会における「自分の不安を表現できる言葉が見つかった」という発言に由来している。この一連の研究の目的は、当事者と支援者(活動家、心理師、ソーシャルワーカーなど)がFセクが直面する可能性のあるさまざまな問題に対処するためのより良い参照枠を得ることである。これらの参照枠が当事者と支援者にとって有益であることを期待しているが、これはあくまで出発点に過ぎず、実際の支援活動においては具体的な状況に戻る必要がある。

【告知】増補「フィクトセクシュアル宣言」のネット公開

お知らせ

先日、『人間科学共生社会学』第13巻において、最新版の「[増補]フィクトセクシュアル宣言:台湾における〈アニメーション〉のクィア政治」が公開されました。本論文には松浦優さんの解説、「宣言」の全文と補論「『フィクトセクシュアル支持的空間』には何が必要か」が含まれています。いずれの文章も松浦優さんがネイティブチェックを行いましたが、本文は松浦さんとの共著であり、「空間」に関しては私の単独執筆(松浦さんが一部註釈を追加しています)です。

概要

このマニフェストは、フィクトセクシュアルに関するフィールドワークとクィア理論的研究をもとに、人間中心的なジェンダー観や性的規範性、そして存在論を問い直すべきだと主張するものである。

フィクトセクシュアルがクィアの運動や研究のなかで扱われるようになる過程では、アセクシュアル研究と二次元文化研究の蓄積が重要な役割を果たしてきた。さらに人類学者テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念をポストヒューマニズム的パフォーマティヴィティとして読み替えることによって、架空の存在がもたらす「ジェンダー・トラブル」を、人間と非−人間のもつれから生じる攪乱としてクィア理論の系譜に位置づけることができる。またフィクトセクシュアルの人々は、キャラクターが生身の人間とは存在論的に異なるということに関する思索を通して、脱−人間中心的な存在論や倫理の可能性を切り開いている。

しかしながら、フィクトセクシュアルは支配的なジェンダーセクシュアリティ・システムのもとで周縁化されてきた。この問題は「対人性愛中心主義」および「ヒューマノジェンダリズム」と呼ぶべきものである。対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムは、性差別、異性愛規範、シスジェンダリズム、強制的性愛と結びついているだけでなく、人間中心的な存在論の問題でもある。こうした問題に取り組むことによって、クィアな世界制作への道が開かれるだろう。

バージョンについて

現在、「宣言」には3つのバージョンがあります。第1版は、松浦さんの論文「アニメーション的な誤配としての多重見当識」(2022年、『ジェンダー研究』第25号)に基づき、私が導入文として書いたもので、中英バイリンガルのzine形式で発行され、同人イベントにおいて50部が販売されました(完売)。第2版は、ネット上で公開されたもので、同人イベントでの反響を取り入れ、さらに『攻殻機動隊S.A.G.』などの参照を追加した補足が含まれています。このバージョンもzineとして100部印刷され、同人イベントやフェミニスト書店Fembooksで委託販売されました(完売)。

第2版はこちらのリンクからご覧いただけます。このバージョンはネイティブチェックは行っておりませんが、何人かの読者から言語面での修正提案をいただきましたことに感謝いたします。

『人間科学共生社会学』に掲載されたバージョンは第3版であり、期刊に発表されたため、最終版となる予定です。このバージョンは松浦優さんと私の共著ですので、最も緻密な論述を参照したい場合は第3版をお勧めします。しかし、私にとってはそれぞれのバージョンが独立しており、異なる特性を持っていて、その時期に私が考えていたことが表現されています。

第3版の由来は、2023年末に松浦さんからアーカイブとしてこの宣言を掲載したいというお誘いを受けたことにあります。当初は共著の予定はなく、私はいくつかの修正を行い、松浦さんが校訂と注釈の追加を担当されました。しかし、〆切が近づいた頃、ある友人から英語圏での出版機会を提供され、英語圏で発表するのであれば、松浦優さんとの共著が理にかなっていると考えました。そのため、松浦さんと私は大幅な修正を加え、この第3版となりました。(もし採用されれば、2026年頃に英語版が発表される予定です。)

第3版における補足と改訂

今回の発表はもともと「宣言」と、私がFacebookに投稿した「フィクトセクシュアル・フレンドリーな空間に必要なものは?」「『Fセク』を『異/同性愛』に含めることの何が問題なのか」という三つの文章の合輯でした。しかし、改訂を進める中で分量が多くなりすぎたため、「異/同性愛問題」という文章を削除しました。理由としては、この主題についての理論化がまだ十分ではないと感じたため、今後の論文で扱う予定です。

「空間」という補論では、もともとは第一段「導入」と第四段「フィクトセクシュアル支持的空間には何が必要か」だけでした。そこに、第二段「『抹消』と『驚き』による空間戦略・戦術」と第三段「フィクトセクシュアルの概略的記述」を追加しました。第二段は既存の学術的な文脈に合わせるために入れたものですが、紙幅の制限もあって少し中途半端に見えるかもしれません。ただ、これは問題意識を簡単に提起したに過ぎません。そして、第三段はこの文章の中で最も重要な部分だと思います。第四段で提示されているさまざまな構想を考える助けになるからです。また、第四段には、その後に私が目にした事例もいくつか追加しました。

「宣言」について、松浦さんとの共同修訂のため、状況がもう少し複雑です。以下に、主な改訂と補足を箇条書きで説明します。

アニメーション・パラダイムについて

まず、テリ・シルヴィオの「アニメーション・パラダイム」についての解説を追加しました。しかし、シルヴィオの「アニメーション対パフォーマンス」の図は削除しました。この図はシルヴィオが理論的に作成した対照を理解するのに役立ちますが、これらの理論に不慣れな人には理解しづらいです。第三版では、シルヴィオがこの理論を提唱した背景を強調し、後続の議論とより良く関連付けています。

この議論に続いて、非−人間のエイジェンシーによる「アニメーション的な誤配」の解説と関連する具体的事例を補足しました。この段落(2. 1.)の改訂は主に松浦さんが担当しましたが、いくつかの中二的な用語は私の改訂から残されたものです。たとえば、「非世界的な万物を世界化」という表現など。この段落では「アニメーション的な誤配」の意味を簡潔に説明しようと努力していますが、この概念を詳細に理解したい場合は、松浦さんのさまざまな著作を直接参照することをお勧めします。

私がにアニメーション・パラダイム関して補足したのは、「アニメーティヴな再帰性による不気味な存在論」という段落(2. 2.)を新たに追加したことです。この段落では、シルヴィオの「アニメーティヴな再帰性」に関する議論に焦点を当て、いくつかの台湾での事例にまで続けています。補足された事例には、「フィクトセクシュアルのパラドックス」に関する調査や、別のフィールドで出会った「ファーリーセクシュアリティ」、さらに元々後の段落で言及した台湾の「偽娘」コミュニティがこの段落に移されたことが含まれています。

「不気味な存在論(uncanny ontology)」はシルヴィオが言及した用語ですが、その著書の中では全く説明されていません。そのため、Manning & Gerson(2013)の言説を使ってその意味を与えようと試みました。私はこれを、アニメーティヴな再帰性を通じて「生気」の存在論を調整することによって生まれるオルタナティブ存在論として理解しています。私と松浦さんの関連する議論には、「uncanny ontology」の「uncanny」が形容詞か名詞かということが含まれています。言い換えれば、名詞であれば「不気味なモノの存在論」と翻訳すべきであり、形容詞であれば「不気味な存在論」と翻訳すべきです。私が述べたいことは後者なので、ここでは「不気味な存在論」と訳しました。

ちなみに、Manning & Gerson(2013)の議論を踏まえ、この段落では「不気味な存在論」とフィリップ・デスコーラの存在論的転向との関連についても新たに議論を追加しました。

対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズム

私が最初に松浦さんにお願いしたのは、「ヒューマノジェンダリズム」という概念を追加し、「『〈字義どおり化〉という幻想』としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエア」の図を入れることでした(3. 3.)。これは私が第一版、第二版を書く際にはまだ出ていなかった概念であり、これらの新しい展開が読者の理解に役立つと考えています。

これに応じて、「異性愛マトリックス」の概念と図は削除されました。私にとって「異性愛マトリックス」はFセクやAセクの「抹消」状況を直感的に理解するのに役立ちましたが、松浦さんはこの概念が「〈字義どおり化〉という幻想」と重複していることを指摘したため、この段落を削除しました。

関連する改訂として、旧版に登場した「ディルドの比喩」と「素肉の比喩」を一つの段落にまとめ、ポール・B・プレシアドの概念「否定-性科学」をタイトルとして使用しました(3. 2.)。私も、プレシアドの概念を直接使用することで、この段落が何を言おうとしているのかをより連想しやすくなると思います。

事例について

事例については多くの調整が行われました。まず削除されたのは『攻殻機動隊Innocence』のネタで、確かにかっこいいのですが、多少意味が不明でした。また、Fセクの歴史性をある程度強調するために、1980年代の「二次元コンプレックス」に関する事例を補足しました。松浦さんは注釈でこれをAセク研究の「共鳴(resonance)」理論に結びつけています。

また、上野千鶴子の言説についてですが、旧版では上野の相対的非公式な発言を引用していました。より公平な評価を目指すために、第三版では上野の代表作『女ぎらい』を事例として選びました。この著作は日本、台湾、中国、英語圏でより高い知名度を持っています。

また、この宣言は精神分析にそれほど重点を置いていないため、文章の冒頭で引用していた『戦闘美少女の精神分析』における「オタクの究極の夢」についての直接引用を削除し、代わりに松浦さんの「多重見当識」に関する議論を取り入れ、Aセク研究の地平に繋げました。そして、文末の「サイボーグ宣言」からの直接引用も削除し、ハロウェイのより後期の著作を引用する形に変更しました。

最後に、このバージョンでは「非対人性愛」の視座から明確に立場を表明するために、この段落を追加しました。(旧版では「非対人性愛」という言葉に言及するのみでした。)

また英語圏アセクシュアル・コミュニティが提示した視座は、フィクトセクシュアルは単なるアジア的な奇特な性の一形態であるというステレオタイプ(あるいはオリエンタリズム)を問い直し、フィクトセクシュアルを真剣にとらえることを可能にするうえで、重要な示唆をもたらすものです。それと同時にフィクトセクシュアルは、A-spec の外側での活動として、「非対人性愛の運動」の力学を通して独自の生を築き上げてもいます。「非対人性愛」は包括的な用語として、A-spec とつながるだけでなく、対物性愛(Marsh 2010)、人形愛(関根 2018;Kubes 2019;Karaian 2024)、動物性愛(Rudy 2012;濱野 2019)、フェティシズム(McCallum 1998;田中 2009)、エコセクシュアリティ(Sprinkle, Stephens, and Klein 2021)、スペクトロセクシュアリティ(Spectrosexuality)などにも接続されるものです。

 

 

 

フィクトセクシュアルな視座をどのように具象化するか

破抹消化戦略/戦術

私は「『フィクトセクシュアル支持的空間』には何が必要か」(Fセク宣言[松浦優との共著]の補論として、『人間科学共生社会学』第13号に掲載予定)という日本語論文の中で、「脱抹消化戦略/戦術」という言葉を使用しました。この言葉は、松浦優の「抹消の現象学的社会学」という論文で言及されている「抹消(erasure)」の概念から来ています。大まかに言えば、それは意味領域間での隠蔽、非類型化、および反問題化を含みます。これにより、問題が問題として認識されず、意味の主題が主題として認識されない状況が生まれます。

「抹消」という言葉は、すでにセクマイ・コミュニティで使用されています。例えば、「Aセク抹消(asexual erasure)」「バイセク抹消(bisexual erasure)」などです。(例えば、「Aセクはまだ運命の人に出会っていないだけ」「異性と付き合っているバイセクシュアルはただの異性愛者でしょ」などです。)

しかし、抹消という形態の差別は、差別研究においてはまだ十分に注目されていないため、「抹消の現象学的社会学」の重要性がここで際立ってきます。抹消のレトリックは主に「○○にすぎない」「ただの○○でしょ」といった形で表れます。これは単に発話対象を矮小化するだけでなく、主に「別のクレームを無効化する」ことに作用します。抹消は単なる言語行為にとどまらず、ある規範を引用して別の言語行為を無効化する点が、この差別形式の核心となります

最近執筆中の論文「非対人性愛支持的コミュニティはどのように可能か」において、抹消の結果は単なる伝達の問題にとどまらず、日常生活の中で「言える、言えない、言っても伝わらない」という心態が持続的に測られることに言及しています。他の「言えるか言えないか」の少数者圧力(minority stress)と比較して、第三の状況という「言っても伝わらない」は、つまり「決心してカミングアウトしても最終的には冗談としてしか受け取られない」という状況です。そしてそれが最終的には「誰も理解できない」といった周縁化と自己周縁化を引き起こすのです。

例えば、私の後輩が彼の卒論で百合ファンの研究を行い、藁人形論法を用いて私と松浦優の研究を批判しました:

「オタクがキャラクターに注ぐ感情は、本当にただ(自分自身が入り込む)恋愛感情だけなのか?」
「オタクとキャラクターの関係は、本当にただ『自我』以外の『他者』としての関係形式だけなのか?」
(これらの研究は)「まだキャラクターを『自我』以外の『他者』として相互作用することに重点を置いている」

この理解は、私たちの論文の誤読にとどまらず、Fセクに対する抹消にも関わります。私たちはすでに「人格」と「相互作用」について詳細に議論しましたが、この論文では、私たち(またはFセク)を「自我-他者」という対立関係に設定し、Fセクを人格化した対人性愛中心主義的な視点で捉えています。(私たちはエーゴセクシュアルも含む議論を強調してきましたが、彼はFセクとしてのエーゴセクシュアルをステレオタイプに基づいて排除しました。)彼は「百合ファンがFセクではない(またはなれない)」と仮定し、Fセクは「本当にただ自分自身が入り込む恋愛感情だけだ」としており、これが「抹消」なのです。(この卒論にはの問題もあり、私と松浦の論点が混同され、私の論点に松浦の名前が付けられたり、その逆もありました。)

もちろん、これは学術的な基準であり、日常生活の基準で「フェティシズム」や「スタンダール症候群」などを用いてFセクの意味を隠蔽することは、すでにかなり穏やかです。しかし、正直なところ、それでも私はかなり失望しています。これはまた「言っても伝わらない」経験の一つですし、その後輩とは5年以上の付き合いがあります。このため、「破抹消化戦略/戦術」を考えることが必要です。

「破抹消化」の可能性について、松浦はシュッツの「驚き」を引用しています。シュッツはこの経験を「目覚め」とも表現しています。これは、他の意味への目覚めを示し、驚きとして感じられ、客観的には別の意味領域への「飛躍」として説明できます。「言っても伝わらない」状況は、言語行為が最終的に意味を生み出さなかったこと(他の規範枠組みに引き戻されたため)と、「驚き」と「目覚め」の効果を生まないことを示しています。

「フィクトセクシュアル支持的空間」という論文の中で、私は現象学精神病理学の文脈から「ハイブリッドな対象」の可能性について言及しました。一方で、この論文の出発点は、松浦優の「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:『萌え絵広告問題』と『トランスジェンダーのトイレ使用問題』から」の読書会における私たちの議論でした。その際、私たちが「破抹消化戦略/戦術」に関する議論の中で、ランシエール「感性的なものの分割=共有」が取り上げられました。これは、対人性愛中心主義を「ポリス(police)」と「政治(politique)」との関係に置くことを意味します。ランシエールの意味では、ポリスは美学的秩序であり、政治は美学的再構築です。したがって、抹消と破抹消化の問題を神経多様性と美学の政治に位置づける必要があります。(私が最初に言及した類似のテーマは、松浦優との対談での「想像力の政治」でした。)

フィクトセクシュアルな視座の具象化 Figuration of Fictosexual Perspective

その時から、私はフィクトセクシュアルな視座を感性的に広める方法について考えてきました。「驚き」や「目覚め」を感性的に引き起こすためには、単に「説得」するだけでは不十分だと感じているからです。これは学術論文が感性の範囲外であるというわけではなく、身体との距離やアクセスの問題です。例えば、学術論文を名言風に変換して広めるツイッターボットは、抹消化を打破するのに効果的だと思います。(しかし前述のケースは、論点がどのように成功裏に抹消されたかの例です。)

この数年間、もしフィクトセクシュアルな視座からキュレーションを行うとしたら、どのようなものになるだろうかと考えてきました。私の想像はずっとラトゥール式の「どうやって非ヒト(キャラクター)に話させるか」というものでしたが、先日親友と徹夜で議論した結果、このようなキュレーションでは対人性愛中心主義の問題を表現できないことに気付きました。したがって、フィクトセクシュアルな視座から出発するキュレーションは、「二次元/キャラクターの存在論」と「非対人性愛のポリスと政治」の二つ方向性に区分することができます。この二つの方向性はいずれも「破抹消化」を目的としています。

私が最初に想像していた形式は、「存在論」に関する方向性として考えられます。例えば、キャラクターの同一性を分解し、創作過程や創作ツール(トレス台、セル画、アニメーション撮影台など)を提示して、キャラクターの物質的構成を示すものです。この思考はラトゥール的な「アクターを追跡」というアプローチに近く、リアリティが創作過程にどのように現れるかを示します。谷口真人のインスタレーションアートはこの方面で注目すべき作品だと思います。彼の作品はセル画に色を塗った成果を逆さにし、隠された面を観客に提示します。(数年前、台北での展覧会「美少女の美術史」で彼の作品を初めて見ました。)

しかし、「ポリスと政治」は異なる方向の問題であり、抹消がどのように行われているかを直接示すことが望ましいですが、私はこの点についてまだ迷っています。私たちのFセク抹消に関する研究はほとんどが言語や文字データに依存しており、非言語的形式で非対人性愛に対する「排除アート」についての研究はまだ不足しています(これは、現在のデータが主にネット上で文字として収集されているためかもしれません)。もちろん、法規制やスティグマに関する様々な史料を直接展示することは可能ですが、それには限界があります。そして最も重要なのは、関連する史料の展示が違法となる可能性があることです。例えば、有害図書として指定されているマンガを直接展示する場合などです。

以前、台大の「言論自由月」というイベントで見かけた横断幕がありました。それは、あるネットフォーラムでのゲイやエイズに関するヘイトスピーチを集め、その中心に肛門のイラストを描いて風刺していました。しかし、この横断幕は多くの議論を呼び、最終的には台大生徒会によって撤去されました。傷をアーカイブ化して批判することは、逆にトラウマを引き起こす可能性があります。それは結局、意図した効果を達成できたのでしょうか?確かに、この社会がどのようにゲイを排除するかを示しましたが、その言語行為を行った責任を負う必要があります。

私はスマホで撮った写真です。横断幕には、直接印刷されたヘイトスピーチが貼られていました。その晩、この横断幕の横でタバコを吸っていたとき、生徒会の役員がその横断幕を撤去するのを目の当たりにしました。実際には、生徒会が世論に応じて「言論自由月」期間にこの横断幕を撤去したことが、私にはより衝撃的でした。

デザインやキュレーション、芸術史に関する訓練がない私は、フィクトセクシュアルな視座をどのように具象化するかについて考えています。今後、このテーマについて専門家に相談するかもしれません。

補記

関連する展示品もいくつか作成しました。例えば、これは台大オタ研の部室です。台大オタ研とのコラボを行った場所でも、同じ展示物がありました。ちなみに、旗は私が十枚作り、すべて無料で友人に配りました。(大量注文しなければ、旗を作るのは高額ですね。)

未提供說明。

ちなみに、前述の「言論自由月」というイベントでは、オタ研の他のメンバーの同意を得て、オタ研の名義でこの横断幕を掲示しました。スローガンは私と他の数人の友人と一緒に考えました。しかし、通行人には「意味不明」と思われるかもしれません。

そして、この横断幕は数日後、隣の「アンケートで生物学的性別を問わないで」という横断幕と一緒に破壊されました。今日まで、犯人が宗教的保守主義者かアンチジェンダー運動者かはわかりません。しかし、私たちは一緒に新しいバージョンを再制作しました。



面白い同人オタク研究をどのように行うか?

この記事は、私があるNGOから招待されて高校生に向けて行った講演原稿です。このイベントはまだ公的機関との申請中です。

これは入門向けの講座ですので、深い学術知識に踏み込まず、参考になる選択肢に重点を置いています。これらの選択肢はすべて選ぶことができ、新しい研究者が立場や方法を選ぶ際の手助けになればと思います。

用語の紹介

タイトルに「同人オタク研究」としていますが、これはオタクに限定されません。「オタク」は私が実際に適用した事例の一つです。今日のテーマは、より広範な「同人文化研究」に拡張できるものです。また、「オタク」をここで定義することはしません。なぜなら、50年の歴史と国際的な文脈で定義するのは非常に困難だからです。「同人」という言葉の意味については、まず「同好」に関わるものであり、「非営利、自費出版」という手法、そして「同人イベント」での頒布に関わるものとします。

それでは、いくつかの用語を紹介します。ある程度、この講座ではこれらの用語を厳密に区別しませんが、それぞれに独自の文脈があります。まず、「大衆文化(ポピュラー・カルチャー)」です。この言葉は「高尚文化(ハイ・カルチャー)」に対して創られたもので、クラシック音楽や油絵など、公式に認められる文化に対するものです。例えば、大衆文化は通常、国民教育の教科書には登場しません。他の訳語としては、通俗文化、庶民文化があります。大衆文化研究は、アニメやマンガ、オタクを研究する際のアプローチの一つとされています。

これに近いのが「ファンダム研究」です。ファンは「過度的な読者」と定義され、そのコミュニティは公式文化経済の下で「影の文化経済」を形成します。ファン研究は、受容研究やアクティブオーディエンス研究に近く、読者が文化商品をどのように積極的かつ能動的に受け取り、独自のコミュニティを形成するかを議論します。また、時には「シリアスレジャー研究」と関連付けられます。シリアスレジャー研究は、アマチュアとプロフェッショナルの関係に焦点を当て、単なる娯楽以上に心血、精力、キャリアを注ぐレジャー活動を研究します。しかし、シリアスレジャー研究とファン文化研究の違いは、必ずしも文化商品をファン対象とする必要がなく、活動の種類自体が対象となることもある点です。

最後に、現在の日常用語では曖昧になっている「サブカルチャー」についてです。「サブカルチャー」は主に特定のライフスタイルを指し、例えばパンクなどがあります。時には主流文化への反抗を強調することもあります。また、定義上、特定の文化商品に依存しないものです。最も古典的な対象は、青少年文化や逸脱(犯罪)サブカルチャーですが、その他にも老年サブカルチャー、障がいサブカルチャー(例えば自閉文化)、セクマイサブカルチャー(例えばゲイサブカルチャーやSMサブカルチャー)などもあります。台湾では、サブカルチャーというとアニメやマンガを指すことが多いですが、学術的にはこれは不正確です。なぜなら、アニメやマンガにも主流作品が含まれているからです。

また、「サブカルチャー」という言葉は、欧米では時にカウンターカルチャー=対抗的文化」と関連付けられることがあります。しかし、私の知る限りでは、「カウンターカルチャー運動」は主に1968年の学生運動と関連しており、当時の台湾はまだ戒厳令時代にあったため、基本的には関連付けるのは難しいと思います。また、私にとってサブカルチャー研究はポストコロニアリズムサバルタン研究」とも関連付けることができますが、方法論上、多くの調整が必要です。

最後に、学術的には、バーミンガム学派(CCCS)のサブカルチャー研究の後に、「ポストサブカルチャー」や「アフターサブカルチャー」など、多くの議論が巻き起こりました。また、「サブカルチャー」という言葉の日本での使用について、例えば宮台真司などの『サブカルチャー神話解体』は、シカゴ学派バーミンガム学派とは異なる点があるようです。しかし、これについての詳細な議論はここでは控えます。

学術研究と趣味研究

「研究」という言葉は、どうしても退屈に感じられることが多いでしょう。しかし、少なからず新しい知識を発見したときに、心から面白いと感じた経験があるのではないでしょうか。誰しもが、好奇心に駆られて外の世界を探求し、その結果として楽しさを感じたことがあると思います。ちょっとしたひらめきを楽しみ、そのことで今日の自分が昨日の自分とは違うと感じることができるのです。

ここで、「学術研究」と「趣味研究」を区別したいと思います。学術研究が常に退屈だというわけではありません。大学者たちは、自分の研究が面白いと思っているからこそ、何十年もその研究に没頭できるのです。しかし、学者は職業でもあり、「学術官僚」という存在もあります。学術界に身を置くことは、学術の官僚制度に従わなければならないということでもあります。この制度は多くの場合、退屈なものです。

しかし、それとは対照的に、誰でも研究をすることができます。たとえアマチュアであっても。アマチュアであるからこそ自由であり、学術官僚制や学術的な人間関係から解放され、柔軟で面白い研究ができるのです。日本では、小学校から中学校までの夏休みに「自由研究」という宿題があります。これは通常、テーマが設定されておらず、自分の興味のある分野やテーマを選び、実験や観察、調査を通じて研究成果をまとめます。私の子供の頃、台湾の教育にはこのような自主探究を奨励する面はあまりありませんでした。せいぜい高校の小論文がありましたが、これは主に大学のレポートのフォーマットを予習することや、賞を狙うことが目的でした。

学術研究と非正規な趣味研究の最大の違いは、教授や学術仲間、査読委員、ジャーナル編集者を喜ばせる必要がないことです。そのため、多くの冗長な手続きを省くことができます。学術研究では、研究が「資格を持つ」必要があります。論文自体が十分であるだけでなく、研究対象も十分である必要があります。初期の頃、学術界でサブカルチャーや大衆文化の研究は「上品でない」と見なされていましたが、現在では徐々に状況が改善されています。しかし、依然として「Not Safe For Acadamy」ものが存在します。例えば、性文化やポルノ、暴力的な作品などです。これには関連する複雑な研究倫理の問題もあり、これについては次に触れたいと思います。

「Not Safe」という言葉のように、これらの研究は「資格を持たない」だけでなく、危険です。サブカルチャーは定義上、主流文化に受け入れられていないためサブカルチャーと呼ばれています。そして、これらのテーマを学術の場に持ち込むことには危険が伴います。例えば、ポルノ作品の研究の場合、徹底的な批判的態度を取らない限り、そのような研究を発表することはほぼ「カミングアウト」に等しいです。非公式の地下出版は、このような「資格を持たない研究」や「危険な研究」に対して小さな空間を提供します。これにより、様々な検閲機構を回避することができますが、これは研究倫理が重要でなくなるわけではありません。むしろ、それは自己責任として扱われるのです。

研究:評論と批評

日本語において「評論」と「批評」は異なる意味を持っていますが、中国語ではこれらの言葉が同じ「評論」とされ、「批評」はほぼ侮辱に等しい意味を持っています。ここでは日本語での意味を紹介します。日本語で「評論」は、情報を集めて解説する作業であり、その目的は理解を深めるためのツールを提供することです。一方で「批評」は知識を生み出し、思想を動かすものであり、その目的は議論されている事柄に新たな意味を付与することです。これは情報を集める作業とは全く異なります。もちろん、読みやすさを高めるために、一つの良い批評は一定の評論を含むことが多いですが、基本的に評論は批評を必要としません。評論は無意識的に批評的な要素を含むことがあり、それがより面白くなることもありますが、基本的に「評論」と「批評」は振り返り(review)と創造的作業(rewrite)の違いと考えられます。

「評論」と「批評」の違いは、日本の「評論系同人」という言葉にも現れています。基本的に、この言葉を直接検索すると、さまざまなテーマが見つかります。たとえば、見聞記や経験談、夏休みの自由研究に似たもの、さらには台湾の選挙データをまとめた同人誌などが含まれます。これは「評論」が経験の紹介に重点を置いているためです。しかし、同人イベントには「批評」の文体も含まれています。例えば、故・米澤嘉博先生のように、彼は漫画研究者でありながらComiketの主催者でもあり、1970年代には同人サークル『迷宮』に参加し、『漫画新批評大系』に批評を連載していました。

また、多くの教授が学生がレポートを感想文として書くことに不満を持っているという話を聞いたことがあります。私自身も同人評論誌を編集している際に、同じケースにしばしば直面します。個人的には、評論と批評は感想文とは区別すべきだと考えています。基本的に、感想文には抒情的な要素が含まれているからです。批評が抒情的であってはならないというわけではありませんが、方法論や論証構造においては明確であるべきです。この点は、「主張(claim)」と「論証(argument)」の論理構造から説明できます。

最も古典的な三段論法を用いて説明すると、ある主張は「ソクラテスは死ぬ」というものです。一方、ある論証は「大前提=人は皆死ぬ、小前提=ソクラテスは人である、結論=ソクラテスは死ぬ」というものです。もちろん、批評は帰納や演繹の論理だけではないと言いたいわけではありませんが、批評は前提を明確にし、証拠(warrant)を提供して論証の有効性を成立させる必要があります。それに対して「風景が美しい」といった断言は、感覚的直観でしか体験できないものです。簡単に言えば、「風景が美しい」と言われたときには、「なぜ美しいのか?美しさはどこにあるのか?」と問いかけることで、感想が次第に評論として発展し、理解しやすく、共感を呼び起こすものとなるのです。

また、感想文と研究との違いの一つは「問題意識(problematic)」です。これは既存の成果に新たな意味を生み出す方法の一つであり、「問題を形作る」ことと「問題に応える」ことを含みます。問題意識とは、問題の基礎となるもので、どのような前提の下でその問題が問題となるのかを考えることです。この点を明確にした後に、研究問題が生まれ、その問題に対して論証を通じて応答していくことになります。これにより、新たな知見を得ることができます。これは単なる感情の表現や描写、整理作業とは異なります。この点において、問題意識を明確にすることが批評の重要な部分と言えるでしょう。

オタク研究の2つの立場:アカ・ファンとファン・スカラー

次に、オタク研究の2つの立場について説明したいと思います。これはオタクの文脈からではなく、ファンダム研究の文脈から来ているものですが、ここでもおおまかに当てはまります。Matt HillsとHenry Jenkinsが提唱した「アカ・ファン(Aca-Fan)」と「ファン・スカラー(Fan-Scholar)」がそれで、これは学者の立場からとファンの立場からの2つの方向性を意味します。私自身はオタクの論者として、しばしば両方の立場を行ったり来たりする感覚があります。私の経験に基づいて、それを以下の図に整理しました。

もちろん、これが必ずしもどちらか一方を選ばなければならないという意味ではありませんし、「純粋」に一方に属する人が本当に存在するかどうかも疑問ですが、参考にはなると思います。ちなみに、現在では差異を表現するために多くの改変が行われており、例えば私は「アカ・ファン・スカラーと呼ばれる研究者もいます。「アカ・ファン・スカラー」として、二つの立場を同時に取り、二つの道を採用するヒトもいますし、他にも、多くの境界ケースも存在します。例えば、学術研究に従事したいファン、または資本や才能が不足しているため学術界に入ることができず、非正規の方法で意見を発表する学者、さらに学術資本を獲得し使用しているファンなど、こうした場合、彼らの主要なアイデンティティがファンなのか学者なのかを区別することが難しいかもしれません。

Cristofari & Guitton(2017)によって示された操作フレームワークに基づくと、以下のような明確な図を見ることができます。

Cristofari, C., & Guitton, M.J. (2017). Aca-fans and fan communities: An operative framework. Journal of Consumer Culture, 17, 713 - 731.

Cristofari & Guitton(2017)は、いくつかの位置を描き出しました。これには「エリートファン」、「ファンの専門家」、「ファン・スカラーが含まれます。ファンの専門家とファン・スカラーの違いは、ファンの専門家がファン・スカラーよりも多くのコミュニティ参与や身体知を持っている可能性がある一方で、その知識を十分に構造化し、組織化することができない点です。ファン・スカラーは、その知識を言語的により適切に分節化することができます。また、アカ・ファンはこれらのファンダム知識を学術界に持ち込み、時にはこれらの知識がファンダムに戻ることもあります。

注目すべきは、アカ・ファンがファンダムの境界を打破し、「ファンダムに出る」を促進する役割を果たし、ファンダム知識を一般化し、商業化することがある点です。日本でこの学術資本を用いた「ファンダムに出る」の典型例は宮台真司東浩紀(または野村総合研究所)であり、台湾ではU-ACGの梁世佑がその例として挙げられるかもしれません。

言説資源:学術パラダイムとローカルな知識

言説資源の分布を示す図を描きました。図は「作品・技術からサブカルチャー生活」および「学術パラダイムからローカルな知識」という二つの軸で構成されています。Cristofari & Guitton(2017)の図と同様に、これは論述の組織化を示す一方で、論述の分布も示していますが、私の主観的な優劣を示すものではありません。

左側の学術的なパラダイムサブカルチャーを研究する際には、右側のリソースを参照せざるを得ないことがほとんどです。これらのリソースは通常、「経験データ」と呼ばれます。しかし、右側のローカルな知識の発展は、左側の学術的パラダイムに依存するわけではありません。左側の研究成果や概念ツールを流用することができますが、ローカルな知識は自身の再帰性によって知識体系を組織化することもできます。ただし、学術的なツールや権威が不足している状態では、できることには限りがあります。

また、ファン文化内でのコミュニケーションも当然のように、大量の大衆知識に依存しています。例えば、国民教育、通俗心理学、通俗哲学、疑似科学などであり、一般向けの書籍を通じて得られる知識です。これらはサブカルチャーのローカルな知識と混ざり合うことがあり、両者を区別するのが難しい場合がありますが、主な違いは大衆知識はほとんどの人が簡単にアクセスできるのに対し、サブカルチャーのローカルな知識はそうではない点です。

以上のように、アカ・ファンとファン・スカラー、学術的なパラダイムとローカルな知識の関係と分布を示しました。これらの関係を明らかにする目的は、選択を明確にするためです。あなたは何をしたいですか?あなたは何になりたいですか?誰に話したいですか?誰のために話したいですか?どうやって話すべきですか?何を話すべきですか?これらはすべて選択です。この議論の目的は、このような再帰性をもたらすことです。次に、ファン・スカラーの立場から研究を行う方法や、伝達とメディアの問題について主に議論します。

サブカルチャーの知識を再帰的に発展させる方法

前述した「ローカルな再帰的言説」という言葉は、現地の人々が自己を超えて自己を見つめる反省と自己対話を通じて形成される思考体系のことです。これは、現地の人々の身体知やライフスタイルとは異なります。身体知とは、サブカルチャー行動の背後にある直感的な基盤を意味しますが、再帰的言説はこれとは異なり、再帰性を通じて組織化され、分節化されることで、より効果的に利用され、伝播し、学ばれることができます。これを「現地理論」と呼ぶこともあります。学術的なパラダイムとは異なり、学術官僚制の外側で形成されますが、サブカルチャー行動の方向を指示し、再帰的に引用され、修正されるのです。

私はオタク同人批評は、ファン・スカラーの立場に基づいて、このような再帰的言説に位置づけられるべきだと思います。それは単なる描写ではないため、この再帰的言説には「私たちはどのようにして私たちのサブカルチャーを変えたいか」、「どのようにしてサブカルチャーを『より良く』するか」という目的が含まれています。このような問題意識はアカ・ファンとは異なります。アカ・ファンはサブカルチャーを大衆に紹介し、サブカルチャーの学ぶべき点を説明する傾向がありますが、もちろんサブカルチャーを批判することもあります。しかし、その立場はファン・スカラー再帰的言説とは全く異なります。

ここでは、このような再帰的言説を構築し、拡張するためのいくつかの方法を提案したいと思います。作品論はほぼ最もよく採用される方法であり、作品とサブカルチャーの間に解釈学的循環を生み出し、作品にサブカルチャーの意味を付与します。しかし、その再帰性は弱い場合があり、例えばネット上でよく見かけるどの立場から見ても愚かな作品論などです。この再帰性はまずサブカルチャー内コミュニケーション」において生まれます。例えば「アニメ読書会」という形式では、サブカルチャーの臨場感の中で作品を集合的な議論し、このようなコミュニケーションは私たちが分節化していない身体知を明確にするのに役立ち、再帰性を提供する装置となります。台湾の同人サークルでは、Socotakuや台大宅研などがこのような形式を採用しています。

ここから徐々に研究領域に進み、さらに努力が必要になってきます。私は再帰的言説を構築するための三つの方法を提案します:史料考察、フィールドワーク、アーカイブ。史料考察は文献の調査に限らず、忘れ去られた作品や文物を含むものです。これらの文物を見つけ出すことは、私たちの歴史を再帰的に再発見することであり、私たちのサブカルチャーがどこから来たのかを理解する手助けになります。したがって、史料、文献、文物の収集は重要であり、それらを理解し解釈する作業もまた重要です。しかし、この作業は日常生活の中で隠されていることが多いため、十分な再帰性がなければ発見することが難しいかもしれません。

第二の方法はフィールドワークです。これはサブカルチャー内のコミュニケーションとは異なり、フィールドワークにはフィールドワーカーとしての再帰性が求められます。フィールドワークは、フィールドの中の行動者を意識的に観察し、その行動の意味関連を理解することです。なぜ彼らはそのように行動するのか?なぜそのように話すのか?これらはすべて有意味であり、その意味は彼らの身体知として表現されていなくても重要です。フィールドワークの要点は、これらの意味を記述や解釈を通じて説明することにあります。このようなフィールドワークには、自身のサブカルチャー生活に対する再帰性も含まれます。再帰性を持ちながら創作、読み、鑑賞、消費の活動を行うとき、それは身体知による実践とはどのように異なるのか?

第三の方法はアーカイブ化(archiving)です。すでに発生した、または現在進行中の多くの事件の中には、アーカイブ化されていないものがあります。これらの事件を再編成し、利用可能なアーカイブにすることがアーカイブ化の作業です。それは史料調査と似ていますが、史料を作成するプロセスでもあります。例えば、フィールドの行動者に対して口述歴史インタビューを行うと、その過程でサブカルチャーの文脈に置かれ、まだ分節化されていない事件アーカイブ化されます。そして、これらのアーカイブは言説の参照点となり、再帰的言説の一部となります。

次に、一般のファン・スカラーが実行するのが難しい部分について述べます。これはサブカルチャー内部を超えて再帰的言説を構築することを含み、クロスカルチャー比較や学術パラダイムの取り込みが含まれます。クロスカルチャー比較とは、異なる文化やサブカルチャーとの比較を行うことで、私たちのサブカルチャーの特徴、長所、欠点を明確にすることです。例えば、二次元オタクとケモナ、コスプレイヤー、2.5Dファンやロリータサブカルチャーを比較したり、LGBT+コミュニティと比較することができます。また、これは文化の境界の問題にも関わります。「どの境界内が私たちの文化なのか?」という問いに対し、比較によって私たちの文化の特異性が明らかになり、それは他の文化との相互浸透の中でしか顕在化しません。したがって、私たちの文化には本質的な境界はなく、他の文化との違いと距離を見つけることができるだけです。

最後に、学術パラダイムの取り込みについてです。学術研究で提供される概念的なツールは、それが私たちのサブカルチャーに特化して構築されたものでなくても、再帰的なツールとして利用することができます。しかし、この取り込みはリスクも伴います。時には学術的な権威が、ファン・スカラーが権威を得たりサブカルチャー代弁するための単なるツールに過ぎないことがあります。ファン・スカラーサブカルチャーのために、再帰的な目的でこれらの概念的ツールを使用しなければなりません。ただの象徴的な権威を求めるために、無意味に学術用語を使用するべきではありません。もちろん、日本の事例のように、学術的な権威そのものがサブカルチャーを呑み込み、サブカルチャーが学術運動の道具として利用されることもあります。これは一介のファン・スカラーが防ぐことはできません。その結果として、私たちがサブカルチャーについて語るときには、これらの学術的な言説を使用せざるを得ないのです。

最後に、研究倫理の問題について少し触れておきたいと思います。同人出版は外部機関の倫理審査を通過する必要はありません(というか、審査機関が関与しない)が、道徳的・自己責任において、「無傷害(do no harm)」が第一の原則です。まず、ファン・スカラーサブカルチャー内部での権威を利用して、報告者から資料を提供させることや、圧力をかけることがないかどうかが問われます。次に、研究は大部分が「暴露」行為であり、特にサブカルチャーにおいては、皆が黙っている暗黙のシナリオを明るみに出すことがサブカルチャー自体に害を与える可能性があります。学術的な事例では、『茶室取引(Tearoom Trade)』がゲイサブカルチャーを暴露したこと、『逃走中(On the Run)』がアフリカ系アメリカ人コミュニティのサブカルチャーを暴露したことが議論を呼びました。同人出版であっても、このような倫理問題に直面する必要があります。すべてのことが表現されることが良いわけではありません。この問題は、後述する伝達やメディア問題とも関連しています。

サブカルチャー知識の伝播方法について

今の時代、SNSやネット記事が主なコミュニケーション手段となっています。他にも、Podcastや自作の電子書籍など新しいメディアもあります。例えば、Amazon Kindleでは自費出版電子書籍の機能があると聞いています。後者については詳しくないため、ここでは触れません。しかし、ネットの公開性には注意が必要です。いろいろな権限設定ができても、様々な方法でそれを回避できることがあります。また、ネット情報はプラットフォームの審査を受けることがあり、「機密」情報として扱うのは難しいです。これは、サブカルチャーのセンシティブな部分に触れる際に特に危険です。例えば、前述したように、ポルノ作品の研究に関しては、ネットの公開性だけでなく、情報がどこまで流通するかをコントロールするのが難しいですし、司法体系の監視や審査を受けやすいです。

そしてこれが紙メディアの優位性です。紙の本の出版は、正規出版とアンダーグラウンド出版に分けることができます。正規出版はISBN(国際標準書籍番号)体系に組み込まれた出版であり、出版社出版と自費出版が含まれます。出版社出版は編集者との交渉が必要ですが、自費出版ではその必要はありません。ただし、自分でレイアウト費と印刷費を負担する必要があります。正規出版の利点は、出版社が書店、図書館、通販プラットフォームなどの販売経路を提供してくれることです。しかし、ISBN体系に組み込まれた書籍は検索可能であるため、「過度にセンシティブな研究」、つまり成人向けに指定されてもまだかなりセンシティブな内容や、公開すべきでない情報を含む著作には適していません。前述のように、そのような本を出版することは、ほとんど「カミングアウト」と同じことなのです。

アンダーグラウン出版、例えば同人誌出版やジンの出版は、印刷所を見つければ印刷が可能です。この時代に無断でスキャンされてオンラインにアップロードされることは一般的ですが、評論系同人誌の中では、このようなケースは少ないと私の知る限りです。同人誌の販売はその流通に制限を加えるため、相対的プライバシーが保たれます。もちろん、同人誌は同人イベントで販売せず、かつてのパンフレットのように直接手渡しや郵送で特定の友人グループ内で流通させることもできます。したがって、私的な経験のアーカイブには適しており、フィクトセクシュアルの例として、近藤顕彦編の『二次元キャラクターとの結婚式のしかた』や松浦優編の『Fictosexual Perspective』が同人誌の形で出版されています。これは、まだフィクトセクシュアルについて率直に語る世界ではないからだと思います。

私自身にも同様の例があります。以前、Fancy Frontierで『工口論』という草稿を出版したことがあります。この草稿は、NTRや暴力的なポルノ作品およびそのサブカルチャーについての議論を含んでいましたが、最終的には完成せず、25部のみを予印して販売しました。これはそのような考慮に基づいてのことでした。最近の例としては、昨年台湾ACG研究学会で発表した論文「Fセクの境遇とその逆説」があります。この論文では、かなり非識別的な方法でデータを表現しました。しかし、研究協力者のライフヒストリーを整理したデータ「Fセク集散地のアーカイブ」もあり、これらのデータの表現方法についてはずっと悩んでいます。要するに、ネット公開は考えておらず、専門書の一部としてもためらっています。したがって、同人誌として編集し、限られた範囲で流通させることを検討しています。また、FFのような同人イベントとは異なり、作品論や作家論はオンリーイベントでかなり人気があるかもしれませんが、前述のコミケ形式の評論系同人誌はオンリーイベントとはあまり関係がないかもしれません。

もちろん、同人誌やジンには、同人イベントやジン販売会以外の流通経路もあります。例えば、通販や一部の書店、独立書店などです。具体的には、Socotakuの同人誌はMagasickで販売され、私の『Fセク宣言』ジンはFembooksで取り扱われています(売り切れました)。最後に、これが印刷本の利点の一つかもしれません。電子書籍とは異なり、印刷本の実体性は展示性を高め、つまり偶然手に取ってめくる可能性が増します。Socotakuのメンバーである公法さんは、これについて次のように評価しています。「同人評論誌が売れるためには、最も重要なのは表紙のデザインだ。」ただし、これはFFのような視覚優位なフィールドにおけるマーケティング手法に限られるかもしれません。公法さんのもう一つの名言は、「同人評論誌を買う人は買う、価格が200ニュー台湾ドルでも300ニュー台湾ドルでも関係ない。」です。もちろん、「売れること」を目標にするかどうかは、別の問題です。

この議論は、同人誌のメディア特性と同人イベントのアーキテクチャーを明確にするためのものです。これは定式があるわけではなく、それぞれの前提と目的に応じて手段を選ぶ必要があります。

提案:学術的生産をサブカルチャー知識に変換する

最後に「学術研究」と「趣味研究」の問題に戻ります。現在、学術界の雰囲気が徐々に開放され、多くの人が「趣味」に基づいて研究テーマを選ぶようになり、その結果として大衆文化が前景化されています。台湾の典型的な例としては、修士論文を出版物にした事例があります。例えば、楊若暉の『少女之愛』や張資敏の『宅経済誕生秘話』などです。つまり、学術研究と趣味研究の距離は徐々に縮まり、趣味を学位論文のテーマにすることはもはや珍しくなくなっています。(もちろん、これには指導教員の意向も影響します。)

日本の例としては、『マンガ・アニメで論文・レポートを書く:「好き」を学問にする方法』という本があります。この本はコンテンツが分散した論文集といえますが、学部論文や修士論文の例を通じて、「趣味を学術研究として扱う」可能性を示そうとしています。これは「趣味研究」に対して友好的な成果の一例だと思います。(もちろん、著者の中には著名な学者もいます。)

基本的には、前述のように多くの方法論的問題について議論してきましたし、さらに深い方法論についてここで全てを説明することはできません。史料考察、コンテンツ分析、インタビュー、フィールドワークなど、これらは専門書を参考にする必要があります。社会科学の専門家でも、多くの課題と長年の実践を通じて熟練する必要があります。ここでは、一つの提案として「授業レポートを同人誌化する」方法を提供したいと思います。

現在、多くの人が授業レポートでサブカルチャーに関連するテーマを書くようになっています。私が見た例では、学部生のレポートでフィクトセクシュアル、萌えフォビアローカルアイドルVtuberメイドカフェ、中国の音声パフォーマンスなどについて書かれているのを見たことがあります。オタクとアニメが主流な学術テーマとなったポストクールジャパン時代において、私たちはサブカルチャーに関連するいくつかの授業を受けることができます。例えば、李衣雲教授の『マンガ文化論』、王佩廸教授の『オタク学』と『アニメ文化とジェンダー』、Teri Silvio教授の『アニメ・マンガの人類学』、王威智の『現代東アジアアニメの文化読解』などの授業があります。基本的には、大学のレポートの品質にはあまり期待しない方が良いですが、これらの授業は再帰的言説が大量に行われる場所であることは間違いありません。

しかし、レポートの問題は、それが基本的に教育成果の確認としてしか扱われないことです。最終的には教授やTAだけがそれを目にするか、発表の機会が10分から30分程度しかないことが多いです——基本的に、学生の努力が無駄にされてしまうのです。たまに、教授が学部生のレポートを論文集にまとめたり、学部生に対して公衆向けの発表の機会を提供することもありますが、これは骨の折れる仕事であり、報われないことが多いです。

一部の大学院生は授業のレポートを直接ジャーナルに投稿することがありますが、ここで別の方向性を提案したいと思います。それが「授業レポート同人誌化」です。前述したように、これは単に敷居を下げるだけでなく、異なる対象に向けて発信することができます。それによって、レポートという退屈な作業が面白くなり、授業レポートが単なる授業の一部ではなく、面白く情熱的な労働に変わります。私はそのような行動の実践者でもあります。

台大オタ研の同人誌『球根Rhizome』は、最初にこのようなサブカルチャー関連のレポートを集めるために設立されました。とはいえ、私はすぐに台大生の大部分が依然として単に成績評価のためにレポートを書いていること(しかも一部の人が書きたいセンシティブなテーマが授業で発表するには適さないこと)に気づき、この目標はすぐに達成できませんでした。しかし、私はまだ二つの個人的な事例を参考として提供できます。

『球根Rhizome』には現在、創刊号と『オタクの生態』特集の二号があります。創刊号は基本的に雑多な内容で、オタクの生態特集は手元にある原稿をまとめたものです。当初は『オタクのセクシュアリティ』特集も予定していましたが、最終的には出版されませんでした。その中で、創刊号とオタクの生態特集にはそれぞれ私の授業レポートが含まれています。「絶望世界、臨終少女、幸福漫遊」は『マンガ文化論』の期末レポートで、宅生態特集の「オタクは死んでいる、しかしその亡霊がまだ消えず:オタク文化経済の美学的反思」は『文化人類学』の期末レポートです。

基本的に、レポートの構成は「序論—本文—結論—参考文献」であり、これはレポートと評論とで同じです。しかし、高校の小論文から修士論文にかけての基本的なテンプレートは「序論—文献レビュー—研究方法—研究結果—議論—研究の限界と貢献—参考文献」となっていますが、評論にはこのような分割は必要ありません。文献レビューの目的は、基本的には前述の「問題の構築」であり、問題を適切に構築すれば、このように分ける必要はありません。文献レビューの基本的な目的は、既存の研究とつながり、既存の研究の啓発と不足を評価し、それによって研究問題を提起することです。これは既存の学術知識と対話するためのものです。しかし、同人評論にはこのような既存の学術知識との対話の義務はありません。

したがって、これらの既存の研究を把握している人を除けば、この段落は読者にとって退屈かもしれません。また、特に授業のレポートでは、問題意識に関係ない文献も引用する必要があります。これは教授を喜ばせるためであり、例えば、一部の教授は「今学期学んだ内容をレポートに引用してください」と規定することがあります。その授業が内容が薄い場合、この段落自体が論文の余分な部分になります。したがって、評論では文献レビューの段落を削除することができます。これは既存の文献や史料を全く読まなくてもいいという意味ではなく、それらは論文の中で問題の構築や論証の一部として組み込むべきです。「Aは…言った、Bは…言った、Cは…言った、だから…」という形式を取る必要はありません。

例えば、私のオタク批評「オタクは死んでいる、しかしその亡霊がまだ消えず」では、オタクの「セグメンテーション」と「アニメファン汎化」の問題について議論したいと思い、次のような構成を示しました。

  • 文化宇宙としてのオタク場
  • オタクの死とオタク場の自主論理
  • セグメンテーションの現象と生産—消費の実践
  • ケース:一篇の風刺小説を通してオタク場の階級を考察する
  • 結論:オタクの再考
  • 参考文献

初めに、ブルデューの芸術社会学理論とイアン・コンドリーを引用し、岡田斗司夫等々の歴史的な記述を通じて、オタクがどのように場として成立したかを論じました。この問題意識が浮かび上がります。岡田が述べるように、オタクは「すでに死んでいるのか?」という質問に答えるために、場の分化の現象を論証しました。場の分化はサブカルチャーの消滅を意味するわけではなく、ただサブカルチャーが垂直的に歴史的な積層を生じ、水平的にジャンルの散逸を生じるだけです。次に、興味深くするために、史料として中国のオタクを風刺した小説「アニメバラモン消亡史」を引用し、この現象を説明しました。この風刺小説はまた、言語、ジェンダー、国際政治の問題を議論に引き入れ、前述のデータでは見えなかった側面を提供します。最後に、新たな見解として、問題を「主体」から「家族的類似」にシフトし、今後の議論に対する提案を提供しました。

これは批評の典型的な構成であり、「問題を形作る—問題に応える」というものです。理想的には、レポートも同様の内容を持つべきですが、学術的なルールに従うために、冗長な部分が生じます。これらの部分を削除することで、一般の読者が理解しやすくなります。私の『文化人類学』のレポートをこのように同人誌に収めるバージョンに修正するために、必要な文献を除外しました——なぜなら、同人イベントでこの本を手に取る読者は、私の『文化人類学』の教授よりもオタクについて理解している可能性が高いが、人類学については理解していないと推測されるからです。中にはブルデュー風の派手な表現の痕跡が残っていますが、それを限られた範囲に圧縮しました。過剰なブルデューは私の問題意識を超えてしまうからです。

要するに、ここで提案するのは、レポートを同人評論に修正することで、その効果を最大化するということです。これにより、レポートを書くことが楽しくなり、心血が教授のコンピュータの中で埋もれることもありません。それはサブカルチャー再帰的言説の一部として影響力を発揮します。もちろん、発表方法は様々で、私たちのように同人誌を作るのも一つの方法ですが、ブログやネット記事、メディアへの投書、ジャーナルへの投稿なども可能です。どのように利用するかは、それをどのように修正するかに影響しますが、唯一お勧めしないのは、それらが永遠に教授のコンピュータの中で停滞し、学術とサブカルチャーの両方に忘れ去られること、そして教授にも自分自身にも忘れ去られることです。