不可視な世界

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『戦闘美少女の精神分析』を読む②:反転したヒステリー

戦闘美少女の精神分析』を読む」は、郝柏瑋心理士と私が去年行った講演「非対人性愛の多重見当識:『戦闘美少女の精神分析』をクィアリーディング」の成果整理です。文字数が多すぎることに気づいたため、2つに分けました。この記事は10252語で、これほど長い記事を読むことができない場合は、「目次」機能を使用してください。

戦闘美少女の精神分析』を読む①」では、主に虚構理論について議論しています。そして、「『戦闘美少女の精神分析』を読む②」では、「反転したヒステリー」という概念について議論します。そこでは、齋藤の議論を紹介するだけでなく、アセクシュアリティとヒステリー構造の関係についても議論し、私が講演で提案したバトラー的解釈を説明します。

彼女の「戦鬪」は、彼女が体現する男オタクの幻想が投影され、反転したヒステリーの性倒錯的表現である。ヒステリーが「反転」しているのは、ヒステリー者がセクシュアリティの外傷を身体化すること(somaticizing)で表現するのに対し、戦鬪美少女は外傷をまったく経験していないように見えるからだ。彼女の戦鬪は復讐のためでも、正義のためでもない。抑圧されず、道具化されないセクシュアリティの表現なのだ。彼女は明確な理由もなく戦う。彼女はファルスと純粋な享楽の体現者であり、それは虚構と幼児的多形性倒錯(infantile polymorphous perversion)の空間の中にしか存在しえない。ラカン的ファルスの体現者として、彼女は欲望と欠如、対立と復讐というオイディプース的回路から抜け出す道を提供する。彼女はオタクの 「性倒錯」の徽章なのだ。(Vincent 2011: xviii)

「なぜならおたくの『語らい』とは、自らのセクシュアリティに対する、永遠に答えのない問いかけであるからだ(57)」

齋藤は、「おたくのセクシュアリティ」を理解するために「ヒステリー」という言葉を使用しています。これは予想外ではありません。郝さんは、ジェンダーセクシュアリティ運動の影響を受けて、現在、ほとんどのラカン精神分析家が「ヒステリー構造」を使用してジェンダーセクシュアリティのマイノリティを理解し、肯定療法(affirming therapy)を行っていることを教えてくれました。また、郝さんは講演でケビン・マーフィーの著書『アセクシュアリティフロイトラカン的な精神分析:謎の理論に向けて』を推薦してくれましたが、当然ながら、当時私はその本を読んでいませんでした。今では、それを齋藤理論より詳細なラカン的理論化と見なしていますが、彼らの議論には一部の矛盾があるかもしれません。

「『おたく』のセクシュアリティについて」

第六章「ファリック・ガールズが生成する」は『戦闘美少女の精神分析』という本の中で最も詳細なラカン理論の議論であり、第一章は私の見解では、現象学や社会システム論として考えるのに適しています。ですので、理論を重視し、さまざまなデータにそれほど興味がない場合は、まず第一章と第五章を読むことをお勧めします。実際、「ファリック・ガールズが生成する」はある程度散文的な性格があり、『博士の奇妙な思春期』の第二章「『おたく』のセクシュアリティについて」では、齋藤のこの章での主要な論点が要約されています。

齋藤(2003)はまず、「戦闘美少女=ファリック・ガールズ」が「対象a」であることを明確に指摘し、また「性別化の式」についてある程度詳細に議論しています。『博士の奇妙な思春期』の「『おたく』のセクシュアリティについて」では、齋藤は中島梓の情報を用いて「やおい」を導入し、男女別に基づいて「欲望の不対称性」を議論しようとしています。ただし、齋藤や中島も男オタクも女オタクも日常生活でシス異性愛者であると認識しています。これは私にとって問題があると考えます。つまり、マイノリティを無視しているということです。

伊藤剛が指摘したように、オタク自体がクローゼットであり、そして、非シスジェンダーや非異性愛者も他のクローゼットであるということです。言い換えれば、オタクコミュニティで「カミングアウト」することは、一般社会よりもさらに開かれた行為であっても、容易なことではありません。(一方で、オタクコミュニティはホモソーシャルな特性を持っており、このようなジャンルのジェンダー化には他のアプローチが存在する可能性があります。)こうした人々は一般社会で「二重排除」を経験しなければなりません。このような『クローゼット認識論』を無視すると、実際の議論ができなくなります。

齋藤と中島が提示したのは、結局のところ(必ずしも正しいとは限らない)統計的な現象に過ぎません。これはラカンが議論した象徴的性別位置(sexual position)とは異なる問題であり、そのため「性別化の式」を直接的に適用して「欲望の不対称性」を定義することは、私にとって問題があるかもしれません。そのため、私はここでは「欲望の不対称性」について詳しく議論しません。(私にとって、精神分析が得意とするのはダーガーや宮崎のような個別事例分析であり、共同体分析や表象分析ではありません。)

反転したヒステリー

要約すれば、第五章の中心的な概念は「反転したヒステリー」であり、斎藤(2003)がその要点をまとめています。

①男性が女性を欲望するとき、そこで女性のヒステリー化がなされる。

②「ヒステリー化」とはすなわち、対象を「可視的で誘惑する表層」と「不可視な深層=本質(たとえばトラウマなど)」の二重構造において見いだし、欲望することである。

③「戦闘美少女」には、さまざまな点で現実のヒステリーに関する特性が該当する。

④ただし「彼女」は外傷をもたず戦闘する=享楽することができるという点において、現実のヒステリーを鏡像的に反転させたような存在である。(斎藤2003)

ラカンの言葉遣いでは、「男女」という言葉は生物学的な意味ではなく(ラカンにとって、生物学の対象は現実界にあり、言語と経験の限界の外にあります)、象徴的性別位置を指します。それは「ファルス(ф)」との関係に依存しています。ラカンにとって、男は「ファルスを持つ」、女は「ファルスになる」。したがって、以下の議論では、「男女」というシニフィアンの代わりに「ファルスを持つ」と「ファルスになる」を使用します。

ヒステリー症状の最も典型的なものは、性別位置に対する絶え間ない問いかけです。「私の性別は何ですか?」「私は男ですか、女ですか?」という質問的構造がヒステリーの主体構造を形成します。前述のように、このような欲望は実現に抵抗し、このような問いは答えが必要ないため、自らの性別位置に対する抵抗と、他者からの欲望に対する抵抗として現れることがよくあります。キャラクターとしての戦闘美少女は言語を使用する主体ではなく、オタクこそが言語を使用する主体です。したがって、私は戦闘美少女を一種の「ヒステリー症状」と見なし、「オタクのセクシュアリティ」を「ヒステリー構造」と見なします。そして、このヒステリー構造こそが「セクシュアリティの磁場」を形成し、齋藤が言う「自律的な欲望経済」となります(298、320)。

本書では、「反転したヒステリー」に「反転」は2つの意味があるかもしれない。1つ目の意味は、「ファリック・ガールズ」と「ファリック・マザー」が対称的な主題を持つが、ファリック・マザーは外傷を身体化(somaticizing)し、ファリック・ガールズは外傷を「空虚であること」に化しています。そして、ファリック・マザーが象徴界で行動するのに対し、ファリック・ガールズは純粋に想像的な存在です。これが2つ目の意味、つまり「現実のヒステリー(齋藤の用語)」が自らの性別位置に対する永遠の問いかけであり、「反転したヒステリー」が自らのセクシュアリティに対する永遠の問いかけであるという意味です(本節の見出しを参照)。実際、齋藤は第2の意味についての議論が少ないですが、それがむしろ「オタクのセクシュアリティ」の要点であると考えられます。このような「永遠の問いかけ」が、「想像的な多型性倒錯」の基本的な動力であると言えるでしょう。

實際には、斎藤は触れていないものの、「反転」には別の解釈があると考えています。引用された文献によると、「ヒステリー者の性器は脱性化され、身体はエロス化されている」とあります(ナシオ1998;斎藤2006から再引用:322)。この式を反転すると、「反転したヒステリー者の自分や他者の性器は脱性化され、世界はエロス化されている」となります。バトラーが指摘するように、身体と世界の精神分析的な境界、身体の同一性は、「鏡像段階」で生じる想像的な効果です。この場合、戦闘美少女の身体を精神分析的な身体として無根拠に捉えることは問題があるかもしれません(バトラーの議論については後述します)。

ファリック・ガールズがなぜ「空虚」なのかについて、齋藤環は『風の谷のナウシカ』を例に挙げ、ナウシカが物語世界における「存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如」と述べました(316)。しかし、私は齋藤のここで急に出てきた表象分析について、躊躇しています。ナウシカはキャラクターであり、言語を使用する主体ではありません。そして、齋藤が先に指摘したように(308)、私たちはナウシカを「精神的現実」を持つ人間としてではなく、宮崎駿ジブリチーム、そして読者共同体の経験から見るべきです。

ファリック・ガールズがなぜ空虚なのか、私がより受け入れられる説明は、この「空虚」がキャラクターそのモノの二重性から来るというものです。「記号的身体=人工的身体=不死的身体」、つまり「マンガのおばけ」、そしてそれに生命を与えることによって生じる「心=内面=死にゆく身体」(大塚2003)。これはテリ・シルヴィオ(2019)が生命に対する肌理論で提唱する「条里(striation)」とそれに対する「有機性(organicity)」というものです。同一性を持つ有機的身体とは異なり、断片的な身体の中できらめく、揺れ動く内面性が、その「空虚」の源泉です。

その他に重要な点は、「ファリック・ガールズ」がシニフィアンなのかイメージなのか。斎藤はラカンの言葉を引用して、「ファルスは享楽のシニフィアン」と述べ、ファリック・ガールズ「はファルスに同一化する」と説明しています(330)。したがって、この点では、ファリック・ガールズはシニフィアンである可能性があります。しかし、斎藤はまた説明しています:

ファリック・ガールズに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。(330)

これは、ファリック・ガールズがまずイメージであることを示唆しています。これは当然のことであり、私たちのセクシュアリティはまず想像界で形成され、そして「おたくのセクシュアリティ」や「戦闘美少女」という言葉でそれを呼び起こすと、それはシニフィアンとなります。この過程では、「排除(foreclosure)」と「抹消(erasure)」も発生します。私はファリック・ガールズをイメージとして理解しようとしており、そのために「ファルスのパフォーマティビティ」の概念を導入しました。この主題については第三節で議論します。

最後に、一つの私が理解できない因果論証を挙げたい。

このとき受け手の欲望がヘテロセクシュアルなものであるほど、想像的な「表現された性」はそれを乗り越え、逸脱する必要がある。(311)

これは、前述の「多重見当識」で論じられた「乖離」と「複数化」とは異なる因果関係を示しています。問題は、「成因」としての「ヘテロセクシュアル」であり、もしここで齋藤が言及しているのが「より神経症大文字の他者により支配)」である場合、その結果、もちろん、質問や抵抗としての「反転したヒステリー」がより強力になる可能性が高まります。なぜなら、元々ヒステリーは神経症構造であるからです。したがって、私が提供できる唯一の可能な解釈は、齋藤がここで論じているのは読者のセクシュアリティではなく、象徴的な異性愛規範であるということです。

セクシュアリティとヒステリー構造

マーフィー(2022)は、齋藤よりも詳細なラカン的な無性愛理論を提唱しています。彼の重点は、彼が「無性愛主体」を一般的な神経症主体から独立させたことであり、これにより私たちは無性愛についてより正確に議論することができるようになりました。彼にとって、無性愛主体の中で、幻想としての対象aも同様に「空虚」であり、この空虚がファルス的な享楽を廃止しているため、無性愛主体の特性は「廃止されたファルス(the phallus annulled)」にあります(Murphy 2022)。

齋藤にとって、オタクの「想像的な多型性倒錯」は、想像界が本質的に前オイディプース段階にとどまっているため、自然に幼児的なセクシュアリティ(infantile sexuality)の多型性倒錯を保持しているとされます。齋藤は日本では象徴的去勢はほとんどなく、わずかな想像的去勢しか存在しないとさえ考えています(302)。一方、マーフィーは異なり、彼は無性愛主体をポストオイディプース段階に位置づけ、想像的ファルスから象徴的ファルスへの移行過程を議論しています。

私は、無性愛主体が性愛主体とは質的に異なる方法で去勢コンプレックスを経験すると提案しています。無性愛者は想像的ファルスを廃止にしているため、無意識的に象徴的ファルスとの関係に変化をもたらし、後者の性的要素も廃止にされます。したがって、この解釈では、一つの全体としてファリックな文脈で意味効果を指定する代わりに、[...]性的要素が廃止にされた脱性的シニフィアンのファルスは、ポストオイディプースの子供が大文字の他者へのファルス化的依存関係を逆転させながら、依然として欲望の主体でいられるようにします(Lacan, 2020, p. 179)。[...]代わりに、それは「私たちに無によるサインで現れた」(ibid.)と彼は述べているように、対象に対する積極的な立場を取ることです。そのため、象徴的秩序は、これら最初の想像関係が展開される場所となり、無性愛に関連して、異なる主体的立場が取られるようになります(ibid.)。(Murphy 2022: 113-114)

無性愛主体は、[異]性愛主体とは異なる方法で、想像的ファルスから象徴的ファルスへの「欲望試験(test of desire)」を経験し、彼らの大文字の他者との関係を維持し、主体の持続を促進しています。想像的ファルスを廃止にすることで、ファルスのシニフィアンも同様に廃止にされ、無性愛シニフィアンが象徴的ファルスを代替します。「シニフィアンとしてのファルスは、無性愛に語る主体の外的世界(Umwelt)を、彼らの内的世界(Innenwelt)と大文字の他者の欲望との間を媒介するファルス化された意味によって照らすという機能を果たさない。(Murphy 2022: 114)」

一方で、無性愛享楽(Asexual jouissanceは、非ファルス的享楽として、性別化の式の一端として存在します。マーフィー(2022)は、このような主体をラカンフロイトが言及した「例外」と結び付けており、つまり、「すべて男(All man)」と「すべて女はでない(Not-All of woman)」の外側にある「少なくとも1つの(at-least-one)」ものです。マーフィーは、次のような言葉を引用して説明しています:「決して不足することのない享楽、つまり別の享楽を信じる者がいる。(Fink 2002; as cited in Murphy 2022: 119)」

マーフィー(2022)は、無性愛主体とヒステリー主体を比較し、類似点を指摘する一方で、無性愛主体がヒステリー主体ではないと断言しています。これは、ヒステリー主体が「主人のシニフィアン」を拒否する一方、無性愛主体はそれの代替としての「無性愛シニフィアン」を創造するからです(Murphy 2022: 121)。マーフィー(2022: 122)によれば、無性愛は「私の性別は何ですか?」ではなく、「私は何か」という質問に対して、その答えは象徴的無性愛シニフィアンから得られると指摘しています。さらに、彼(2022: 122-123)は無性愛主体が大文字の他者を避け、「私は何か」という問いに答えることで、「これ(欠如)が私です」という回答を示し、ある程度、ヒステリーの「私は何(欠如)か」と反転していると述べています。そして、彼は(2022: 123)主体として前に、無性愛はセクシュアリティであり、そのため、それが神経症構造である必然性はなく、精神病や性倒錯などの構造であることができると補足しています。

私見では、マーフィーは無性愛主体が無性愛シニフィアンを通じて答えを見つけ、ある程度「質問構造」を終了させたと考えているようです。しかし、私にとっては、この論証を成立させるために、マーフィーはA-Specの力動学を意図的に無視した可能性があります。A-Specが成立する力動学は、「これが私です」というよりもむしろ「これ(新しい名詞)が私ですか?」です。私が「無性愛シニフィアン」を得たからと言って、私の質問が終了したわけではありません。むしろ、私は「デミセクシュアル」「グレーセクシュアル」の間を行ったり来たりし、さらには「クワロマンティック=WTFロマンティック」のような、質問構造そのものであるシニフィアンを形成する可能性さえあります。質問の運動はこれによって停止せず、むしろ強化されます。

この問題において、斎藤環の「反転したヒステリー」は有効なアプローチを提供しているように見えます。それはヒステリーと一部共通していますが、ある点では決定的に異なります。最も重要なのは、「私のセクシュアリティは何ですか?」「そのセクシュアリティは私ですか?」という質問構造で表れることです。これはA-Specの力動学に合致しています。そして、「無性愛」や「オタクのセクシュアリティ」、さらには「フィクトセクシュアル」などのシニフィアンを得ることは、質問の運動を停止させるのではなく、むしろその質問の運動を激化させます。Keith Vincentが述べたように、ここにはクィア的な潜在性が存在しています。私は講演で、このような運動に一つの名前を付けました:「問いかけを通じたクィア化(Queering through Questioning)」。

ファルスのパフォーマティビティ

講演では、「ファリック・ガールズ」の概念をさらに掘り下げるために、バトラーの『問題=物質となる身体』からレズビアン・ファルスと形態的想像界の章を引用しました。この論文では、バトラーは「ファルスを持つ」という点に焦点を当て、ファルスの想像的な性質を強調し、それによってファルスの移動可能性を浮き彫りにしました(Bulter 1993)。したがって、バトラーは、ファルスが「特権的シニフィアン」ではなく、「ペニスの幻想的な書き換え(phantasmatic rewriting)」であると説明しています(Bulter 1993)。この見解について、郝さんはもちろん受け入れられないでしょう(笑)。大半のラカン専門家もおそらく受け入れられないと考えますが、私はバトラーによる啓発に興味を持っているので、ここで継続して議論させていただきます。

ラカンにとって、ファルスは欠如のシニフィアン、(大部分の)享楽のシニフィアンであります。一方で、ペニスは想像的身体部位であり、ファルスは象徴的特権的シニフィアンです。一つの身体部位とこの特権的シニフィアンとの関係は何でしょうか。また、ファロゴセントリズムはどのように形成されるのでしょうか。

それに対して、バトラー(2003)は、『鏡像段階』と『ファルスの意味作用』を読んで、前者の重要性を高めました。『鏡像段階』では、想像効果が身体の一体性と部位性を形成し、これらの部位が『ファルスの意味作用』でファルスの機能に類似したもの、つまり「理解可能性(knowability)」を生み出しました(Bulter 1993: 46)。しかし、この理解可能性の条件としての想像的身体部位は、すぐに『ファルスの意味作用』で「ファルス」で置き換えられ、そして、「ファルス」は「意味可能性(signifiability)」の条件になります(Ibid.)。

もし「鏡像段階」での想像効果が理解可能性を把握するのに十分であるなら、なぜ私たちはファルスが必要なのでしょうか。そのため、バトラーはラカンの「理論的なパフォーマンス」を分析しました。ラカンは、「ファルス」を性感帯、発達段階、経験、想像効果、症状、対象、幻想と理解する他の精神分析家の考えを否認しました。それは特権的シニフィアンでなければならない(Ibid.)。したがって、バトラーにとって、これは名付けによる否認(denial)であり、それによって知覚(percipi)、つまり「ファルスを持つ」という完全性を維持するのです(Ibid. 48.)。

もし、ラカンによって立てられたファルスの位置が、鏡像の前の脱中心化された身体の欠片の鏡像化と理想化を症状化しているのであれば、ここで私たちは器官や身体部位、ペニスをファルスとして幻想的な書き換えを読み取ることができます。これは、その代用可能性、依存性、小ささ、有限な制御、局部性に対する転価的な否認(transvaluative denial)によって実現される動きです。その結果、ファルスは症状として現れ、その権威は原因と結果の逆転によってのみ確立されることになります。意味作用や意味界(the signifiable)の想定された起源ではなく、ファルスは要約された意味連鎖の効果となるでしょう。(Ibid. 49.)

したがって、ラカン理論において、上演されるのは「ファルスのパフォーマティビティ」であり、それは「ファルスが何でないか」という否定(negation)によって成立し、それが特権的な意味を持つことができ、そして、この否定のパフォーマティビティを抹消する(erasure)ために、理想化が行われる(Ibid. 50.)。しかし、それは理想化されたものであり、幻想的な書き換えであり、想像效果を含む意味連鎖であるため、私たちは「ファルスのパフォーマティビティ」を逆にすることもできます。

考えてみてください、「ファルスを持つ」ということは、腕、舌、手(または両手)、ひざ、もも、骨盤骨、目的を持って器具化された身体のようなモノ(things)の配列によって象徴化されることができます。そして、この「持つ」ということは、「ファルスである」ということと関係があります。これは、その独自の意味作用の一部であり、また、望まれる女に遭遇するものでもあります。この場面は逆転することができ、あることと持つことが混同される可能性があることは、規範的異性愛交換のどちらかだけを務める非矛盾の論理を覆すことになります。(Ibid. 55. 括弧内省略、強調引用者)

バトラーは、ファルスが「モノ」を介して象徴化されることができることを説明しました。つまり、「ファルスを持つ」または「ファルスになる」は人工物を通じて実現される可能性があります。そして、「オタクのセクシュアリティ」や「Fセク」または「無性愛」のいずれであっても、別の方で「ファルスのパフォーマテイビティ」は長年にわたって存在しています。キャラクターも、男女の役割以外の方で、「ファルスを持つ」や「ファルスになる」という関係に入ることができます。さらに、キャラクターの存在のために、しばしば「ファルスを持つ」と「ファルスになる」の異なる主体位置を区別できなくなります。それは、二分された区別がある程度混ざってしまっています。私は、これが将来、オタクやFセクに対する精神分析の試みにおける重要な主題になると考えています。(もちろん、これはラカンの専門家には受け入れられない可能性があります。)

講演の最後に、私はハルバースタムの題名「君、私のファルスはどこだ?(Dude, Where is My Phallus?)」を引用し、「反転したヒステリー」という主題をまとめました。

実際、私はこの論文との対話に多くのスペースを割いていませんでしたが、多重見当識と永動的質問構造では、知覚と知識がしばしば破砕され、循環し、断片化される傾向があります。知識を得たとしても、主体はしばしば忘却します。この忘却が、ニューロクィアの可能性をもたらすこともあります。

文献

Bulter, Judith. 1993. Bodies That Matter: On the Discursive Limits of Sex. Routledge.

Halberstam, Judith/Jack. 2011. The Queer Art of Failure. Duke University Press.

Murphy, Kevin. 2022. Asexuality and Freudian-Lacanian Psychoanalysis: Towards a Theory of an Enigma. Routledge.

Silvio, Teri. 2019. Puppets, Gods, and Brands: Theorizing the Age of Animation from Taiwan. Honolulu: University of Hawaii Press.

Vincent, Keith. 2011. “Making It Real: Fiction, Desire, and the Queerness of the Beautiful Fighting Girl.” Translatorʼs Introduction in Beautiful fighting girl, edited by T. Saitō. Minneapolis: University of Minnesota Press.

大塚英志。2003。『アトムの命題手塚治虫と戦後まんがの主題』。徳間書店

斎藤環。2003。『博士の奇妙な思春期』。日本評論社

斎藤環。2006。『戦闘美少女の精神分析』。東京:筑摩書房

 

『戦闘美少女の精神分析』を読む①:虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人

「『戦闘美少女の精神分析』を読む」は、郝柏瑋心理士と私が去年行った講演「非対人性愛の多重見当識:『戦闘美少女の精神分析』をクィアリーディング」の成果整理です。文字数が多すぎることに気づいたため、2つに分けました。この記事は10103語で、これほど長い記事を読むことができない場合は、「目次」機能を使用してください。

「『戦闘美少女の精神分析』を読む①」では、主に虚構理論について議論しています。そして、「『戦闘美少女の精神分析』を読む②」では、「反転したヒステリー」という概念について議論します。そこでは、齋藤の議論を紹介するだけでなく、アセクシュアリティとヒステリー構造の関係についても議論し、私が講演で提案したバトラー的解釈を説明します。

導入

去年、台湾の出版社である心霊工坊から、オタク論の古典『戦闘美少女の精神分析』が出版されました。正直なところ、心靈工坊がこの本を出版することには驚きました。心霊工坊という出版社は、台湾で有名な現象学的心理学者である余德慧先生によって設立されたというイメージがあります。しかし、余德慧先生の死後、その出版物は基本的にユングニューエイジ、あるいは霊性運動に関連したものが中心でした。最近は、マーケティングを変えたようで、柄谷行人文集や小坂井敏晶『民族という虚構』やチベット民族誌『圖博千年』などが出版されています。(余德慧先生の本は今では手に入りにくいので、心霊工坊が『余德慧文集』を再編集してくれることをいつも願っていますが、そのような本はあまり利益をもたらさないでしょう。)

私はかなり昔に筑摩書房版の『戦闘美少女の精神分析』を読みました。そして、私は常に「オタクのセクシュアリティ」と「オタクィア小谷真理の用語)」という言葉の愛好者でした。斎藤環が「オナニー」を通じて「オタクのセクシュアリティ」を説明することは、しばしば批判されたり笑われたりします。しかし、私はこれらの嘲笑の中にオナニー差別の心性が含まれていると考えています。とにかく、私はただ笑うだけの人々とは異なり、「オタクのセクシュアリティ」が少なくとも理論的に議論に値すると考えています。

ちなみに、斎藤環が台湾で出版されたもう1冊の本は『社会的ひきこもり:終わらない思春期』であり、これも心霊工坊から出版されています。中国で出版された簡体字中国語の本も一部所有していますが、私が主に読んでいるのは台湾大学図書館の日本語の本です。これらの本は私の持つ物ではないため、私は熟読していません。ほとんどが曖昧な記憶しかありません。手にした主な本はメディア論に関するもので、『文脈病』『博士の奇妙な思春期』『メディアは存在しない』『キャラクター精神分析』などがあります。

戦闘美少女の精神分析』に再び注目するきっかけは、松浦優(2022)による多重見当識概念の解釈でした。この論文に触れ、Keith Vincentによる英語版の序文「それをリアルさせる(Making it Real)」を再読しました。(実際、最初に手に入れたのは英語版で、高校時代にAmazonで購入しました。)これにより、本書のいくつかの興味深い概念に気付くことができました。ちょうどその翌年には、この本の繁体字中国語版が出版され、私は台大オタ研で「『戦闘美少女』を再読する」というシリーズ読書会を開催しました。

率直に言って、この本の翻訳には多くの問題があります。翻訳者は精神分析の専門家ではなく、論理的な問題があり、誤訳や原文にない語彙が登場し、中国語も流暢ではありません。また、人文学界の用語に精通していないために多くの誤訳が発生しています。全体を通しての間違いは、セクシュアリティが「性」「性欲」「性嗜好」「性癖」「性生活」と交互に翻訳され、「健常」が「健全」と「正常」の両方で交互に翻訳されることです。そして、「共同体」と「媒介」など用語の翻訳にも問題があります。

論理的な間違いの例としては、翻訳者が「レヴェル(level)」と「度合い(degree)」を区別できず、一貫的に「程度」と翻訳され、そして「虚構コンテクストのレヴェル」と「虚構性の度合い」を混同してしまうことが挙げられます。私たちを驚かせる一つの間違いは、第一章の「おたくの精神病理」§29で、「我々とおたく」が「我々正常人とおたく(我們正常人和御宅)」と翻訳されていることです。

したがって、私は第一章だけを詳細に校正し、それ以降は中国語版を読むのをやめました。この本の翻訳の問題は置いておくとして、後にこの本について話す機会がありました。私は友人の郝柏瑋心理士と一緒に、「非対人性愛の多重見当識:『戦闘美少女の精神分析』をクィアリーディング」という講演を行いました。私はオタク論とこの本についてある程度の理解がありましたが、ラカン精神分析についてはあまり詳しくなかったため、ラカンに関する部分は郝さんに補足してもらいました。しかし、実際には、私、郝さん、齋藤の間でラカン理論に対する見解は異なっており、これについては後で述べます。(私のラカンに関する知識は基本的にクィア理論から得られています。)

この記事では、私が取り上げて議論したいくつかの概念、それらの概念に対する私自身の拡張や批評、そして郝さんとの対話から得られた成果について話してみたいと思います。要約では、私は講演でヤスパース、バトラー、ウィニコットの理論を主に使用して議論を展開しましたが、郝さんは私にラカンの基本的な概念である「幻想の式」や「性別化の式」といった点に注意を促しました。これらの基本的な概念を通じて、齋藤のいくつかの曖昧な論点がより理解しやすくなりました。一方で、残念ながら私たちはラカンの「四つの語らい(four discourse)」理論について議論する機会がなかったと思います。(しかし、この主題を当時議論した場合、私は郝さんに追いつけなかったかもしれません...)

「虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人(33)」

これは斎藤が「オタク」の4つの記述の1つです。今では「オタク」という言葉が出ると、必ずしも斎藤の4つの記述に合致するわけではありません。しかし、フィクトセクシュアルにとっては、この記述は依然として議論の余地があります。この記述からは2つの問題が浮かび上がります。1つは、「虚構それ自体」とは何か?もう1つは、「虚構それ自体に性的対象を見い出すこと」とは何か?

虚構コンテクスト

本書の冒頭では、ラカンの三界説が概略に紹介され、それをもとに虚構の問題が議論されます。斎藤にとって、現実界を経験できないため、私たちが経験するすべては虚構であるとされます。しかし、虚構にはさまざまな種類があり、「日常現実=日常虚構」とは異なる虚構が存在します。そして、斎藤はこの違いを2つの側面から説明しています。1つは「虚構コンテクストのレヴェル」の違いであり、もう1つは「虚構性の度合い」です。私の理解では、これら2つの概念は、1つは「メディアシステム」の問題であり、もう1つは「媒介された意識」の問題です。

「虚構性の度合い」とは、「『体験が媒介される度合い』というイメージ」であり、つまり、「『その体験は媒介されたものである』という意識」です(49)。そして、メディアはこのような意識を増強する役割を果たします。一方、「虚構コンテクスト」は、齋藤の説明では、「ある刺激の意味を決定つけるような広義の文脈性」(37)として描写されます。私にとって重要な点は、その単位が「度合い」ではなく「レヴェル」であることであり、つまり、このレヴェルの虚構コンテクストとそのレヴェルの虚構コンテクストが異なるということです。

虚構コンテクストは、「虚構化の手続き」によって「レヴェルアップ(41)」できます。本書で言及されている場合、「虚構化の手続き」という表現はほぼ創作と同義です。この「レヴェルアップ」とは、既存のがさらに高層のコンテクストに入ることを指すのか、それともより高層のコンテクストを作り出すことを指すのか?私にとっては、後者の可能性が高いと考えます。一方、齋藤はこのコンテクストとそのコンテクストが異なると強調することから、「境界」の問題が生じます。そのため、「コンテクスト」よりも「システム」という言葉の方が適していると考えられます。この本ではその「境界」については議論されておらず、齋藤の初期の著作である『文脈病』や後に出版された『メディアは存在しない』でより詳細な議論が見つかるかもしれません。(私の手元にはこれらの本がありません。)

このアプローチは、斎藤がメディアの物質性について議論することを困難にし、また、ヒトと非ヒトの存在論的な違いに対処することができませんでした。(斎藤にとって、この問題の対象は現実界にあるかもしれません。)本書は最後の章で「メディアの特異性」について議論しようとしましたが、第一章で構築されたこれらの概念との対話はほとんどできませんでした。そして、最後の章では、メディアを「間主観的な媒介」と呼び、それが想像界との関係を論じています。斎藤は、メディア環境の「内破」が想像界の拡張をもたらし、「おたく」の想像的な多形性倒錯を生み出すと考えています(294)。私はこの主張に疑問を抱くことはありませんし、むしろ一部同意するとさえ言えます。そして、郝さんはこの主張に同意しておらず、「想像界の肥大化」というよりも、私たちの社会はむしろ大文字の他者の複数化」と呼ぶべきだと考えています。しかし、私にとって、これらの2つの状況は同時に存在しています。

多重見当識

「虚構それ自体に性的対象を見い出すこと」に関して、齋藤は「多重見当識」の概念を提唱しています。本書では、「見当識(orientation)」には少なくとも2つの意味があります。1つはヤスパース現象学精神病理学における原初的な意味で、「世界の秩序構造への個人の臨在的な認識(Jasper 1966)」です。この意味では、「多重見当識」とは、自身を異なる虚構コンテクスト=現実に位置付ける能力を意味します。例えば、次のようなパラグラフで使用されています:

複数の見当識が等置されるという事態においては、リアリティの本質である単一性が減衰する。おたくがしばしば離人的な体験を訴えたり、はた目に浮き世離れして見えるとすれば、このためであろう。(55)

離人的な体験」という例は、齋藤にとって、オタクの「見当識の喪失(disorientation)」のように見えるものは、実際には「多重見当識」に基づいているということを説明しています。そして、もう1つの意味は、ある種のセクシュアリティや欲望の対象関係を意味し、齋藤はこれを次のように説明しています:

セクシュアリティの虚構性、あるいは多層性に気付くこと。(56)

おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における「健常な」セクシュアリティとの乖離ではないかと考えている。[…]彼らはここでも「欲望の見当識」をやすやすと切り替えているのだ。(63)

松浦(2022)は、斎藤の健常主義については既に批判が提起されています。私がここで注目したいのは、「多重見当識」の概念の可能性であり、「乖離」と「複数化」です。そして、松浦(2021a;2021b;2022)は、クィア理論の地平からこの概念を再定義し、「多重見当識=複数の指向」としました。詳細については、これらの論文を参照してください。

私の見解では、これらの議論の中で最も注目すべき点は、松浦(2021b)がこの概念を「精神分析批判=対人性愛中心主義批判としての多重見当識=複数的指向」と拡張し、この現象学精神病理学の概念から派生した反精神分析的な意味を見事に示していることです。これは精神分析の「根源的なシニフィアン」を追求する否定神学に抵抗します。たとえば、フロイト的なフェティシズム理論の「不在の否認」は、多重見当識においては成立しないということです。これにより、この概念にはある程度のドゥルーズガタリ的な意味が与えられる可能性さえあります。

「[愛されたキャラクターは]虚構であることによって、あらかじめ対象喪失の契機が含み込まれた存在だ(171)」

私にとって、第四章「ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国」と第五章の「宮崎駿の『白蛇伝』体験」はとても興味深い議論です。それらは、非常に限られた情報から理論を生み出し、啓発を提供しています。

ダーガーの生活史

講演の時間では、ヘンリー・ダーガーの経験については余裕がなく、なぜなら、後に出版されたダーガーの生活史『ヘンリー・ダーガー、捨てられた少年(Henry Darger, Throwaway Boy)』から、このセクションに多くの補足や修正が必要な点を示しています。幼少期にオナニーのために精神病院に強制収容された経験、幼少期の性的トラウマ、同性愛経験、カルト経験など、これらすべてが斎藤の分析を再構築する必要があります。斎藤の分析は依然として興味深いですが、これらの補足や修正を行わない限り、私はそれを講演の中で取り上げることができません。

斎藤は、ダーガーが「ひきこもり」の特徴を示していると考えています。確かに、ダーガーは交際規範で完全に「正常」とは言えないかもしれませんが、少なくとも彼は完全にすべての社会的関係を断絶しているわけではありません。なぜなら、彼には男性のパートナーがいたり、自分の小説を他人に評価してもらったりしたことがあるからです(その後、その小説は破壊されました)。また、彼の創作活動は、彼の生活と間接的に関連しています。たとえば、一つ写真の喪失や彼が作成したカルト祭壇が破壊されたことなど、これらの出来事は彼の創作活動に影響を与えました。

一方、斎藤は、ダーガーが「ひきこもり」の中で延長された思春期を生きているという仮説を提案し、「直観像資質(158)」を保持していると考えています。もしダーガーがこのような直観像資質を本当に持っているのであれば、彼の(おそらく順調でない)パートナーシップや多くの強烈なトラウマにどのように影響を与えるかについて議論する必要があります。私は、オナニー、同性愛、性的トラウマなど、関連する新しい情報が「ダーガーのセクシュアリティのさらなる研究に役立つと考えています。少なくとも、これは「ひきこもり」だけの要素ではないはずです。

フィクトセクシュアルな逆説

齋藤環が分析した宮崎駿の経験を取り上げた理由は、私が以前の研究テーマである「フィクトセクシュアルな逆説(fictophilia paradox)」と関連していると直感的に感じたからです。齋藤は、宮崎が『白蛇伝』や白娘というキャラクターに対して「両価的な態度(ambivalent attitude)」を持っていると指摘しています(171)。これは私にとって、Fセクな逆説の兆候を感じさせます。

この概念はKarhulahti & Välisalo(2021)によって提唱されました。彼らはこれを1つの主題としていますが、実際には2つのモードについて言及しています:

  • ①キャラクターと人間が相互作用や認識的に差異(interactive or acknowledged difference)があるため、Fセクはキャラクターを認識したり、キャラクターとの相互作用を行ったりする手段を欠いており、それによって不快感を感じる。
  • ②Fセクはキャラクターと人間の存在論的差異を明確に認識していますが、同時に存在論的再構築の願望(a wish for ontological restructuring)を秘めており、これにより認識と願望の間に衝突が生じます。

そして、私はNozawa(2013)が言及した「二重願望」から、②を深化させることができると考えています。

  • 次元の壁を維持したいと願っている一方で、次元の壁の彼方へ旅行したいと願っており、この願望の下で、願望自体が矛盾した型で成り立っています。

上記の3つのモードでは、①は文化的資源の欠如による問題、②は認識と願望の衝突、③は自己矛盾的な願望です。したがって、実際にはKarhulahti&Välisalo(2021)がこの感覚を「逆説(paradox)」と呼んでいることは問題があります。「para-」は「並列」を意味し、「doxa」は「信念」を意味しますが、実際には「信念」は②にしか現れず、それは信念の間の衝突ではなく、「信念」と「願望」の衝突、つまり「価値(value)」の問題です。③を含める場合、この場合「両価(ambivalence)」を使用する方がより適切です。

講演中、②と③のモードについて話した際、郝さんは素晴らしいコメントをしました。彼は、このようなモードが典型的なヒステリー構造を示していると説明しました。つまり、欲望が同時に欲望の実現を望んでいない構造です。ヒステリー構造では、「欲望することを欲望している」ということであり、一旦欲望が実現されると、その欲望の運動は続かなくなります。郝さんは、ラカンが使用した「キャビアの例(肉屋の妻の例)」を引用しました。この事例では、妻はキャビアを望んでいますが、夫がキャビアを持ち帰ると、彼女は不満を示し拒絶します。彼女は、欲望が実現されないようにすることで、欲望することを永遠に維持できます

そのため、郝さんは、Fセクな逆説の両価性がそのような神経症構造を持つ可能性があると考えています。郝さんの分析を通じて、私も初めて、Fセクな逆説が解決すべき問題だけでなく、ポジティブな側面も存在する可能性があることに気づきました。もしかしたら、適切なガイダンスを通じて、このような欲望構造により大きな創造性が生まれるかもしれません。

「喪失」か「否認」か

齋藤環が宮崎についての分析で、齋藤はまず『白蛇伝』が宮崎にとって一種の「外傷」となっていると説明し、そして、このような「『外傷の反復』として継代培養」は、日本社会で「アニメーションの美少女」という欲望経済を継続していると断言します(170-171)。そして、この外傷がなぜ外傷である理由について、齋藤が与えた理由は:

それは甘美な夢のような体験であったかもしれないが、「虚構によって強いられた不本意な享楽」という事実は重く残る。このとき恋愛の対象とのるヒロインは、欲望の対象である同時に、まさに虚構であることによって、あらかじめ対象喪失の契機が含み込まれた存在だ。(171)

この理由には最初、私は迷いを感じました。なぜなら、すべての対象関係には「対象喪失の契機」が内在しているため、この説明は何も説明していないように思われ、したがって、「虚構であることによって、あらかじめ」という言葉の意味が理解できませんでした。後に郝さんが私に教えてくれたのは、これは「幻想の式($◇a)」であり、そして、ここでの「外傷」はつまり対象aです。私は、ここでの「虚構」が斎藤の特定の文脈で使われていることに気づきました。斎藤にとって、私たちのすべての経験は虚構であり、その虚構は私たちが「言語を使用している主体($)」であるという事実を意味します。

しかし、もしこの理解が正しいのであれば、斎藤はただラカンが言ったことを繰り返しているだけです。なぜなら、斎藤は「戦闘美少女という虚構コンテクスト」と、私たちと他の人間がある程度共有する「日常という虚構コンテクスト」との間にどのような差異を通して、「強いられた不本意な享楽」が引き起こすのかを説明していません。なぜなら、これらの「虚構コンテクスト」の両方が「あらかじめ対象喪失の契機が含まれた存在」であるからです。これらは単に「レヴェル」の違いだけなのでしょうか。(先述のように、斎藤はこの本で「虚構コンテクストの境界」の問題については議論していません。)そして、「創傷の反復」は、本来、誰もが経験する普通なことであり、それは戦闘美少女の特異性を説明することができません。

私たちの講演は、ここで「移行対象」の概念を導入しました。私と齋藤はキャラクターに対して異なる認識を持っており、私にとってキャラクターは「移行対象」であり、つまり私たちをこの世界に錨定(anchor)する「非自己(Not-Me)」です。私の検索では、齋藤はこの本で「移行対象」という言葉を一度だけ言及しているはずです(19)。齋藤は移行対象やフェティシズムについてだけでなく、「対象a」についても言及していませんでした、これには驚きました。おそらくこれは一般向けの目的によることかもしれない。

「移行対象」の概念は、元々、赤ちゃんのぬいやタオルなどの愛着物から来ており、ウィニコットはそれを赤ちゃんの「最初の非自己的持つ物」と呼び、母親と赤ちゃんの関係の間の精神的な空間に現れ、赤ちゃんが自分自身を外部の現実に位置づけるのを助けます。したがって、ウィニコットは定型発達における「移行対象の運命」、すなわち「デカセクシス(decathexis)」を指摘しています。

その運命は、徐々にデカセクシスが許されることであり、年月の経過とともに忘れ去られるどころか、辺獄(limbo)に追いやられることである。つまり、健康な状態であれば、移行対象は「内側に入り込む」こともなければ、それに対する感情が抑圧されることもない。忘れ去られるわけでも、弔われるわけでもない。それは意味を失う...... (Winnicott 2005: 7)

しかし、成人生活において移行対象の創造することや呼び戻すことが珍しくないことを示す研究がますます増えています。そのため、私はこの文脈で、斎藤が「虚構化という手段」と呼ぶことを「移行対象の創造」と見なしています。注目すべきは、ウィニコットが「移行対象は最終的にフェティッシュ対象に発展し、そのため成人性生活の特徴として存続するかもしれません(Winnicott 2005: 13)」と指摘したことです。言い換えれば、この論点は広く議論されていませんが、ウィニコットフロイトとはかなり異なるフェティシズム理論を提唱しています。

宮崎駿の体験に戻って、私は齋藤とは非常に異なる論点を提起しました。つまり、宮崎のこの「両価的な態度」は、虚構における内包的喪失の契機ではなく、「移行対象に対する否認(disrecognition toward transitional objects)」に起因していると主張しました。実際、この本が執筆された十数年後に、私が齋藤による宮崎体験の記述を見たとき、最初に思い浮かんだのは「これは萌えフォビアだ」でした。この「萌えフォビア」は、伊藤剛(2008)の定義に従って使用されており、つまり「キャラ=マンガのおばけ」に対する否認、萌えている自分に対する否認、そして、その否認に対する「メタ否認」ということです。伊藤剛はこのように萌えフォビア体験を説明しています:

オタクの人々の多くには、「萌えているじぶん」を強く恥じる機制がある。あるいは自分にとって大切なかけがえのないものであるはずの萌えコンテンツを、ことさらに「こんなものはダメなカルチャーですよ」と言ったりといった行動もある。また自分の萌え趣味が「外」の誰かに知られることを極度に怖れる態度や、「自虐」を基本とするコミュニケーションの様態もある。いずれも、共同体に立てこもる、クローゼットを志向したものに見える。などと偉いそうに書いている私自身、二○代までの間は「萌えているじぶん」を認めることができず、「ぼくは萌えてなどいない!」という強烈な否認の態度を取っていた。いまの自分は、その「克服」の上にいると言ってもいい。(伊藤2008: 19)

この視点から理解すると、宮崎が表現する「両価的な態度」は、実際にはこの否認機制から来ています。彼が白娘との関係を「恋人の代用品(169)」と呼ぶことも、彼自身とキャラクターとの関係を否認しているものです。彼が齋藤が述べるように、投影的防衛の一環として他の美少女キャラクターを創造したかどうかにかかわらず、これによりキャラクターや彼自分自身が彼の悪い対象(bad object)となり、自己非難や自己疑念として表れることになります。伊藤が指摘するこのような心性は現在でも存在しています。これは、このような葛藤が虚構との関係からのものではなく、社会的権力との関係から生じることを示しています。今日では、このような社会的権力を説明するために少なくとも2つの言葉があると言えます。1つは「対人性愛中心主義」、もう1つは「定型発達中心主義」です。

実際、「移行対象と移行現象」に最後の臨床断片で、ウィニコットはこのような否認を記録しています:

彼女は私に、その使用していない毛布についてすでに言っていました。「あなたもわかっているでしょう、その毛布はとても快適かもしれませんが、現実は快適よりも重要であり、したがって、毛布かないことは、毛布よりも重要だ。」(Winnicott 2005: 34)

彼女は移行対象にデカセクシスを行わず、依然として自分の移行対象に愛着を持っていましたが、論理的には、別の対象によりカセクシスする価値があると判断しました。この状況では、彼女は移行対象を忘れたり、悼んだりすることなく、移行対象との禁断症状のような関係を維持していました。

文献

Elledge, Jim. 2013. Henry Darger, Throwaway Boy: The Tragic Life of an Outsider Artist. Harry N. Abrams.

Jaspers, Karl. 1963. General Psychopathology. Translated by J. Hoenig & Marian W. Hamilton. University of Chicago Press.

Karhulahti, Veli-Matti and Tanja Välisalo. 2021. Fictosexuality, Fictoromance, and Fictophilia: A Qualitative Study of Love and Desire for Fictional Characters. Frontiers in Psychology. 11:575427.

Nozawa, Shunsuke. 2013. Characterization. Semiotic Review, (3). Retrieved from https://www.semioticreview.com/ojs/index.php/sr/article/view/16 

Saito, Tamaki. 2011. Beautiful Fighting Girl. Translated by J. Keith Vincent and Dawn Lawson. University of Minnesota Press.

Vincent, Keith. 2011. “Making It Real: Fiction, Desire, and the Queerness of the Beautiful Fighting Girl.” Translatorʼs Introduction in Beautiful fighting girl, edited by T. Saitō. Minneapolis: University of Minnesota Press.

Winnicott, Donald W. 2005. Playing and Reality. Routledge.

伊藤剛。2008。「『萌え』と『萌えフォビア』」。『國文學:解釈と教材の研究』。53 (16)。14-25。

松浦優。2021a。「二次元の性的表現による『現実性愛』の相対化の可能性――現実の他者へ性的に惹かれない『オタク』『腐女子』の語りを事例として」。『新社会学研究』。(5)。116-136。

松浦優。2021b。「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向―仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」。『現代思想』。49(10)。70-82。

松浦優。2022。「アニメーション的な誤配としての多重見当識:非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察」。『ジェンダー研究』,二五号。139–157。

斎藤環。2006。『戦闘美少女の精神分析』。東京:筑摩書房

家の思考:「居場所」と「家関係」

余所者:一つの懸念は、ファンやシリアスレジャー活動のレベルから見て、通常、ファンライフの離脱段階は、一夫一婦異性婚関係に入ることです。そのような経済共同体の中で、ファンのような過剰な関与や消費を許可する人はほとんどいません。オタクの場合、それは「関係に入る=脱オタク」です。また、前にマークが言及したように、「お見合い」という活動で、オタクというラベルは排除されます。社会の中で、このような性生活を許容する人を見つけるのは難しいです。「個人的な理解」な関係性を築くためには、「実は私は変態趣味を持っています、あなたが私を嫌悪するとしても、それを受け入れなければなりません」と告白(confession)しなければなりません。


DD:そう言えば、私は絶滅するかもしれませんね、なぜなら、私が受け入れられない場合、彼らと親密な関係を築くことはありません(笑)。そして、私の周りには似たようなパターンの人がいるかもしれませんが、彼らは40歳になってもオタクのままです。だから、「関係に入る=脱オタク」のような前提はありません。少なくとも家庭の空間では、彼がオタクでなくても、受け入れ、許容する必要があります。受け入れられない場合、その選択をすることはありません。親密な関係を得ても、あなたの人生の7〜8割は意味を持たなくなります。

 

余所者:こちらの親密な関係は非常にステレオタイプな文脈で話されています。フロイト的な核家族のようなもので、厳しい父と慈愛の母がいて、そして去勢や去勢不全的な子供がいます。しかし、広義の「家」や「宿」について話すと、私の人生の経路から、犬と親密な関係を築く可能性が非常に高いと思います。

 

DD:私は脱構築すぎるかもしれませんが、カセクシスや投影ができるある場所やある人があれば、一人と一つ非人間があり、それが家になる可能性があります。私は心の底から、そのようなステレオタイプな家族を構築することを考えたことがないかもしれません。だから、私にとってそれは問題ではありませんでした。私は受け入れられる家族を見つけるでしょう。それができない場合、私は絶滅して一生を孤独に送ることになるかもしれません。

 

余所者:これはさすが人類学の害毒を受けています(笑)。(台大オタ研「圍爐清談」)

この対談は2年前に行われ、その中で「余所者」という仮名が私を指し、「DD」と「マーク」はオタ研の他のメンバーです。この対談は「オタクの信念」と「オタクのセクシュアリティ」をテーマにしており、当時私と他の数名のメンバーの対談を記録しています。

当時私はある程度「オタク」のアイデンティティを持っていましたが、今では自分をそう呼ぶことはありません。私が対話で触れた「懸念」は、私自身の経験ではなく、台湾のいくつかの古参な研究者が研究中に書いたものです。そして、当時私はすでにある対人パートナーシップに入っていました。

後で、DDはこの部分を修正しました。「私にとって、自分が愛着できる場所があれば、自分と感情的なやり取りができるヒトや非ヒトがいれば、それは『家』だと思います。老人と彼/彼女の猫、または彼/彼女の椅子でさえ、家族と言えるでしょう。」要するに、ある「場所」とある「他者」があれば、「家」となります。この「他者」には、もちろん神々、霊、そして二次元キャラクターも含まれます。このような主張のおかげで、私たちにDDはこの対談でのポジティブな担当として称賛されました。

対談で言及されたマークは、オタ研の参加度が比較的低いメンバーの一人です。(そして異性愛者みたいです。)当時、彼は実家から「お見合い」を要求されたようで、同じ記録の中で、「オタク」がお見合いの「趣味欄」に加算されないことを不満に思っていました。当時、なぜ「オタク」を加点項目にする必要があるのか理解していなかったため、私はマークと口論になりました。

記憶によれば、マークは私が若かった(当時21オ)から、「お見合いに行かなければならない」というプレッシャーがないと言っていました。しかし、マークは私のようなセクマイにとって、実家がそんな贅沢な期待を持つことすらできないことを何も理解していませんでした。ただ、もう家族革命をやめてくれればいいと願っているだけだったのです。

私、DD、そしてマークは、実家の状況だけでなく、階級や人種、学んだ専門もまったく異なります。そして明らかに、私の「家」に対する想像力は、マークよりもむしろDDに近いです。この記事で私は、このような想像力について議論したいと思います。

私は私の実家(family of origin)から話を始め、そして私が今定義している家、そして望んでいる家について話したいと思います。*後で気づいたのですが、私は自分の平凡だけど重い実家経験についてあまりにも多くのスペース(6000語)を使って議論していましたが、それを文献との対話に結び付けることができませんでした。そして、これらの葛藤の中で、私は自分がどのような「家」を望んでいるのかを明確にすることができませんでした。そのため、私はその段落を削除し、理論的な議論だけを残しました。

家の思考

近代的な核家族の再生産モデル

私が議論したいのは、子どもが生まれ、養育され、最終的には実家=生まれた家族(family of origin )から離れ、結婚を通じて新たな家族(family of creation)を再構築し、再び子育てに従事する、近代的な核家族の再生産モデルではありません。このようなモデルは、実存分析家であるロロ・メイ(2009)が「オイディプース神話」に対抗して提唱した「オレステース神話」というものに典型的です。

「存在のための闘い(The Struggle To Be)」という論文では、ロロ・メイとフロイトはともに近親相姦を批判していますが、ロロ・メイは去勢や父殺しよりも母親との「精神的へその緒を切断すること(Cutting the Psychological Umbilical Cord)」をより重視すべきだと考えられる(May 2009)。母親はロロ・メイによって魔女のような存在として描写されています。つまり、オレステースの母親であるクリュタイムネーストラーです。ロロ・メイが描くアメリカ的な家庭では、父親(つまりアガメムノーン)は常に仕事で不在であり、子供たちは母親の「悪毒な愛」によって束縛されます。そして、この依存(精神的へその緒)を断つことで、子供は真の自由と自立を得て、内的な近親相姦から解放され、他者を真に愛することを学ぶことができるとされています(May 2009)。

しかし、私はこのような家族観と自立観は、近代的な核家族の再生産モデルを反映しているに過ぎないと考えています。自立に関しては、私は熊谷晋一郎先生が言う「自立とは依存先を増やすこと」のほうが理解できると思います。(申し訳ありませんが、この言葉の出所は確認しませんでした。友人からの情報です。)依存関係を断つのではなく、むしろ他者との関係を築くことが自立であると。同時に、ベル・フックスの主張にも同意します。つまり、「惡毒な愛」は「愛」ではありません。なぜなら、「惡毒(例えば子供を殴ること)」と「愛」は相互に矛盾する関係であり、傷害は愛を消し去ります。(この主張については、後の記事で議論します。)

「家」と‘「家を作ること」の意味

そして、ここで「家」の意味と、さまざまな「家」の形態について議論したいと思います。

黄克先(2021)の台湾の路上生活者(無家者、Homeless)に関する民族誌『不穏な生活(Precarious Living)』では、先行研究が路上生活者が「実家から追放され」「脆弱な家庭に生まれた」という側面を過度に強調してきたが、「家」が路上生活者にとって多義性を持つことを無視している(75)。黄(2021)は、路上生活者が「家」を持っていないのではなく、一時的で柔軟で移動可能な「擬家関係」を構築していることを強調しました。このようなパートナー関係は簡単に形成され、簡単に断絶される傾向があり、当事者によって「鬥陣(tàu-tīn台湾語で連携、協力を表す言葉)」と呼ばれています(106)。

この本では、黄(2021: 76)が「家」の四層の意味を提案しています:

  • 家族(family)」は、感情的、法的、または血縁的な結びつきによって定義される社会単位であり、通常は生殖や養育の機能が与えられます。
  • 家空間(home)」は、そこに身を置くことで安全や親密さ、所属感を生み出す場所です。
  • 家計(household)」は、共同生活によって生じる労働力再生産、労働分業、消費の経済単位です。
  • 宿家(house)」は、安定した居住を提供する物質的構造です。

もし「家」の意味について詳しく議論したいのであれば、関連する他の用語も挙げることができます。例えば、「家事的(domestic)」「家畜化(domestication)」「家政=経済(economy)」などです。また、黄(2021)が挙げたいくつかの単語には、異なる解釈があるかもしれません。例えば、まどかしとね(2024)は、「ファミリー」の語源である「世帯の奉公人」に戻り、これを「家族」と訳すことは不十分であり、この用語を使って「人工的につくられた『仕事よりも家庭よりも大事な』集合体」を説明します。

もう一方では、漢字の造字原理についても議論することができます。「家」という漢字が形声字なのか会意字なのかについては、ある程度の論争があります。一般的な説明では、「家」と「豚」を関連付けて議論することがよくあります。この説明が成立する前提は、「家」が会意字である必要があるということです。しかし、『說文解字』には、「家、居也。從宀、豭省聲。」とあり、これは作者としての許慎が「豕」を形声字の声符と見なし、必ずしも意味を持つとは限らないということを示しています。ただし、漢字を見ると、「家」には少なくとも「定居の場所」の意味があります。そして、「豚」と関連がある場合、「家畜化」という意味がより強調されるかもしれません。

もう一つのアプローチは「親族」です。 林文玲(2014)の台湾のトランスジェンダー家族に関する民族誌において、彼女はすべての「家を作ること」が異なる秩序(order)に対応していると考えています。 これらの秩序には、自然の秩序(order of nature)、法の秩序(order of law)、共有の秩序(order of sharing)、承認の秩序(order of ratificationが含まれます(林2014: 176)。(林は「家」と「親族」の違いを区別しておらず、ほぼ同等に使用しています。) 

林(2014)は、後の2つが、デヴィッド・シュナイダーが提唱した前の2つに対する、新しい親族理論(New Kinship Theory)人類学者メアリー・ワイズマンテルによって「親族を作ること(Making Kin)」という論文で提唱されたものであることを説明しています。 実際、ワイズマンテルはこの論文でこれら2つの用語について触れていません。 ワイズマンテル(1995)はZumbagua社会のフィールドワークから、「共有(sharing)」と「承認(recognition」が親族関係において重要であると述べていますが、「秩序」という用語は使用していません。

ワイズマンテルは、アメリカでの養子縁組と代理出産論争に関する議論を開始し、養子縁組は生殖関係に対する「補償的親族関係(compensatory kinship)」ではないと強調しました(Weismantel 1995: 688)。その議論では、「共有」は「共食(sharing food)」「飼養(feeding)」に焦点を当て、同じ身体材料を共有することから、親族が精神的、象徴的なだけでなく物質的なつながりを得ると述べています(Weismantel 1995)。一方、「承認」とは、関係性の言語的・歴史的集積に関するものであり、この集積は現在だけでなく、親族の過去と未来も結びつけます(Weismantel 1995)。

そして、これらの言語の使用には、もちろん、介護を受ける者が介護者を親族代名詞として呼ぶことを含んでいます(Weismantel 1995)。したがって、これは異なる社会性における「親であること(parenthood)」「母であること(motherhood)」「父であること(fatherhood」)という問題に関連しています。

「宿家」から「居場所」へ

それから、漢字の「家」と「Home」はおそらく最も近いでしょう。黄(2021)は「home」を「家空間」と翻訳していますが、私は無意味な「空間(space)」よりもむしろ意味のある「場所(place)」としての「home」の方が適切だと考えます。例えば「故郷(hometown/homeland)」は決して無意味な空間ではなく、むしろ思い出が集まる場所であり、「離散(diaspora)」の座標系をさらに拡大します。したがって、「空間」と「場所」の方向性は、「宿家」と「居場所」の距離になります。

この方向性に関して、アイリス・ヤングは「宿家と居場所(House and Home)」という論文で詳細な現象学的記述を行っています。これは、彼女がハイデッガーの「住むこと(dwelling)」に対する批判に続くものです。ハイデガーは「住むこと」を「建てること(building)」と「維持すること(preservation)」に区分しますが、「維持すること」を軽視し、「住むこと」を最後には「建てること」と同等の言葉と見なします(Young 2005)。そして、彼女は「宿家と居場所」の間の方向性を「居場所における同一性の物質化過程(the process of the materialization of identity in the home)」として記述しています。

居場所における同一性の物質化過程には、2つのレベルがあります:(1)私の持ち物は、私の身体的な習慣の延長として空間に配置され、私のルーチンを支えるためのものであり、そして(2)居場所における様々なモノ、および空間自体が、個人的な物語の保持者として沈殿した個人的な意味を持っています(Young 2005: 139)。

第一のレベルでは、身体とモノが相互に適応し、この過程に、モノは身体的な習慣を反映するだけでなく、身体の延長となります。そして、第二のレベルでは、生活の意味がモノや空間に物語として沈積され、出来事や関係の物質的なマーカーとなります。この物質的なマーカーは、同一性を固定する(fix)のではなく、同一性をモノに「投錨(anchor)」し、生命の連続性を創造します。そして、この同一性を投錨した後、「維持すること」がさらに重要になります。維持することは修復や思い出に関することだけでなく、モノの意味を更新し、新しい出来事を物語に統合する意味も含まれています(Young 2005)。維持することが生命の継続であると言えます。ヤングは、ファン・レネップの説明を補足として引用しています。

[住むこと]とは、私たちが取り巻くモノとの断絶のない関係であるため、空間での私たち自身の連続した展開です。それは空間を構成する人間の実存そのものです。私たちは単に他の方法を取ることができません。私たちを取り巻くモノは、私たちが空間に住んでいる者と同じような空間の質で自己を呈示します。「私の部屋」という表現における代名詞「私の」は、それを所有していることを表すのではなく、私と部屋との関係を正確に表しており、これは私の空間的実存が生まれたことを意味します。 (Lennep 1987;Young 2005から再引用)

「感情変化」によって「家関係」

一方で、この翻訳は正確ではありませんが、「family」を「家関係」と翻訳したいと考えています。私はそれを「未熟(strange)」から「熟慮(familiar)」への方向性に置きたいです。(「familiar」が名詞として使用される場合、それは魔女と共存する精霊を意味します。)私はそれに「選択的親和性(selective affinity)」という意味を与えたいと思っています。この言葉は化学に由来し、ゲーテでは運命と不倫を指し、ヴェーバーでは「新教倫理」と「資本主義精神」との関係性基盤を意味します。私が表現しようとしているのは、「家関係」が単なる強固な「社会単位」であるだけでなく、引力、結びつき、離脱の中に動的であることです。

前述の「共有」と「承認」という側面に触れたように、台湾のタイヤル族の「家」も同様に理解されます。タイヤル族の家では、居場所と家関係が相互に対応し、「同居共食」と「gaga実践すること」を通じて、家が形成され、gagaが継続されています(王2014)。gagaは文字通り「伝承/祖先の言葉」を意味し、同時に倫理、禁忌、行動規則、能力、運命などを広く指します(王2014: 253)。gagaはある程度でタイヤル族の「家」と対応し、「一つの家、一つのgaga」として表現され、同居共食を通じて一つのgagaを共有し、一人のメンバーが死んだ後もその家の「utux(霊)」となることができます(王2014: 259-260)。

そして、王梅霞(2014)は感情人類学の地平から、タロコ族のフィールドワークを通じて、「共有」と「承認」以外に、「感情変化」が「家関係を作ること」の基盤として提案されました。親子、結婚、友情関係に関わらず、タロコ族のパートナーシップの基盤は「mgalu愛憐、同情)」という感情です。mgaluの欠如は衝突を引き起こす可能性があり、そして、mgaluの前提で理想的な関係(非ヒトとの関係も含む)が成立し、例えば「mgaras(喜び)」や「tkgaras(気楽、苦労がない)」な関係になります(王2014: 297-298)。王(2014: 239)は、教会の例を挙げており、ある伝道で牧師が「共食の中で共有されるのは食物そのものではなく、mgaluである」と述べました。これにより、教会も「家」になることができます。王(2014)はまた、共食に加えて、労力の共有や心の共有など、感情の交換を行うためのいくつかの方法についても言及しています。

王は、タロコ族における「家を作ること」における感情の重要性を強調し、これは漢人の固定された親族/祖霊秩序に基づく結婚や親族交換とは異なります。この点を説明するために、王氏は論文の冒頭で次の言葉を引用しています。

Mlingan/mskuhun sejiq ga. Ndka qsiya yayung msypu qluli. Wada mstrung paru btux duri ga. Wada mswayay ka elu qnliyan da ha duri. Wada msupu ka elu daha duri.

人の感情は2つの川のようであり、時には一緒に流れ、大きな岩にぶつかると別れ、また時には再び合流する。(王2024: 249)

私は、この引用文が私が言いたい「選択的親和性」を的確に表現していると考えています。台湾の路上生活者の短期間の「鬥陣関係」では、利益交換がより強調されていますが、「信頼」と「疑い」も不可欠な重要なテーマです。私は、血縁社会の結婚関係に比べて、このような混沌とした不穏な関係の中での「感情変化」過程は、さらに強烈である可能性があると考えています。

「居場所」か「家関係」 か

この記事の冒頭で、DDは「家」が「場所」と「他者」から構成されると提案します。私にとって、それは「居場所」と「家関係」も説明できると思います。しかし、DDの補足的な説明を考えると、空間の一部としての「老人の椅子」もまた「家関係」における他者となり得ることに気づくでしょう。

このような事例は私の生活でも見られます。私の机のそばには、一つの額縁が置かれています。その中には「私がパートナーと呼ぶキャラクター」のイラストが入っています。台北の家を出るとき、それは私と一緒に出て、私と一緒に「私の部屋」に戻ってきました。それを見ると、私はエネルギーを得ることができます。それは「他者」であり、同時に「私の部屋」「私の居場所」の境界を定めています。それは私の家への所属感の一つの源です。

このような呪術性は、漢民俗における「灶神」と似ており、家が灶神という非ヒト他者を通じて、「居場所」の境界を定義することがあります。私はデュルケームの「集合良識(conscience collective)」理論や呪術と宗教の区別を導入したり受け入れたりするつもりはありませんが、デュルケームは『社会分業論』でこのような「場所」と「他者」の関係についても言及しています。

何よりも重要なことは、その法人は宗教的会社であったことです。それぞれが独自の特定の神を持っており、手段があれば、特別な神殿で崇拝されました。各家族に家族神(Lar familiaris)がいたように、各町には町神(Genius publicus)がいたように、各会社には守護神、会社神(Genius collegii)がいました。(Durkheim 2013: 15)

デュルケーム晩年の著作『宗教生活の基本形態』では、彼はこのような集団と神との関係についてより明確に議論しています。彼の構築したトーテム理論では、これらの「聖なるもの」を「集合的表象(collective representation)」と呼び、集合生活から発散する「マナ」に由来するとしています(Durkheim 1995)。デュルケームにとって、「聖なるもの」は彼の人間性に関する二元論(dualism)の基盤であり、社会的事実が人間に対して鎮圧的であるという考えに基づいています(Durkheim 2005)。そして、どのようなものが「トーテム」になるかは偶発的です。

私の問題設定はデュルケームとかなり異なります。まず第一に、私がモノと結びつくこの場所は、デュルケームにとっては「集合的」とは言えないでしょう。第二に、デュルケームにとっては、トーテムの他者性は重要ではないようであり、この他者性は集合的鎮圧性の中で二次的な部分に過ぎません。しかし、私が注目したいのはこの「他者性(otherness)」です。私は、老人の椅子がどのように他者になったのか、炉がどのように霊性を持つようになったのかを知りたいです。これらの他者が空間の一部として、「家場所」に意味を与える方法、また、空間の一部が「家関係」における他者となる方法を知りたいのです。そして、この過程は、明らかに「集合的沸騰」だけでは行われないことがわかります。

私はこの主題を一時的に「モノの他者化(otherization of objects)」と呼び、将来的にさらに研究したいと考えています。私にとって、この他者性は集合的表象だけでなく、細かい関係の中で、「アニメーション=他者の構築」というさまざまな行動を通じて形成されます。この過程は、「居場所における同一性の物質化過程」と「家を作る感情変化」の交差点になるかもしれません。

文献

Durkheim, Emile.  2013. Durkheim: The Division of Labour in Society. Edited by Steven Lukes. Palgrave.

Durkheim, Emile. 1995. The Elementary Forms of Religious Life. Translated by Karen Elise Fields. Free Press.

Durkheim, Emile. 2005. "The Dualism of Human Nature and its Social Conditions."Durkheimian Studies/Études Durkheimiennes. 11. 35 45.

May, Rollo. 2009. Man's Search for Himself. W. W. Norton & Company.

Weismantel, Mary. 1995. “Making Kin: Kinship Theory and Zumbagua Adoptions.” American Ethnologist. 22(4). 685-704.

Young, Iris M. 2005. On Female Body Experience: "Throwing Like a Girl" and Other Essays. Oxford University Press.

まどかしとね。2024。「すべてはファミリーのために──押井守と冷たい身体/獣の匂い立つ身体」。『攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_』。ISSUE #02=特集_アウトロー|Outlaw。

王梅霞。2014。「『人的感情像流動的水』:太魯閣人的家與情感」。『21世紀的家:臺灣的家何去何從?(黃應貴編)』。群學。249-310。

林文玲。2014。「跨性別者的成家之道」。『21世紀的家:臺灣的家何去何從?(黃應貴編)』。群學。149-204。

黄克先。2021。『危殆生活:無家者的社會世界與幫助網絡』。春山。

臺大御宅研究讀書會。2022。「圍爐清談:宅研談宅」。『球根.Rhizome|宅生態專題』。同人誌。

フィクトセクシュアル・アンブレラ:キャラ性愛、二次元性愛、AI性愛、そして科学空想的なステレオタイプ

近年、AIは注目される話題となっています。そのため、私がフィクトセクシュアル(Fセク)について話題にすると、多くの人が次のような質問をします。

Fセクとは、AIパートナーを好む人たちのことですか?

AIパートナーを愛する人は、Fセクに含まれますか?

AI技術の発達によって、Fセクは増加するのでしょうか?

将来、AIパートナーが普及し、人々の日常生活の一部となった場合、Fセクの周縁化は消失し、Fセクも普通の人々と同じになるのでしょうか?

私は、Fセクについて話題にすると、すぐにAIと結びつけられるようなステレオタイプが嫌いです。(うんざりするとも言えます。)なぜなら、このステレオタイプでは、Fセクがある種のかなり科学空想のような存在として見なされているように思えます。これらの人たちは、実際にはFセクの生活を理解しておらず、自分たちのある種の科学空想的な想像をFセクコミュニティに投影しているように見えます。そして、彼らにとっての技術決定論によれば、Fセクはデジタル時代の副産物に過ぎません。

私は以前の講演でも自分の見解を述べました。私にとって、AIパートナーを愛する人は、非対人性愛者やFセクの一部と見なされるかもしれませんが、彼らは私が研究しているFセクのコミュニティとほとんど共通点がありません。私の研究協力者の中には、AIをツールとして使用する人もいますが、彼らの欲望対象はAIパートナーではなく、キャラクターであり、AIは彼らがキャラクターとの関係を維持するのに役立つツールです。また、この科学空想的な研究よりも、私の研究は前近代社会で既に存在していたヒトー非ヒトの関係性に関心を持っています。

この区分は、AIパートナーを欲望や愛着の対象とする人々をFセクから排除することではなく、Fセクが科学空想的なステレオタイプSci-Fi Stereotype)から抜け出し、Fセクコミュニティの差異性と多様性を認識することを試みています。この目的のために、用語のさらなる細分化や精緻化が必要であるように思われます。そして、このような細分化は英語圏で既に行われており、それは「フィクトセクシュアル・アンブレラ(fictosexual umbrella)」と呼ばれています。このようなA-specに類似した認識論、つまり細分化を先に行い、それから包括的な傘の下で説明する方法は、自己啓発にある程度役立つようです。

フィクトセクシュアル・アンブレラ

私は英語圏のFセク言説を詳しくチェックしていないので、Fセク・アンブレラを初めて見たのは、整理された形で、「ファンダム」というプラットフォームに「セクシュアリティ・ウィキ」の「フィクトセクシュアル」ページに記録されていた時でした。それはまだ変化し続けているようで、去年私が見た状況と比べて、Fセク・アンブレラにはいくつかの特別なサブカテゴリが追加されているようです。

日本語圏では、2年前にあるブログでこのアンブレラについて翻訳が行われました。

私も去年、それを漢語と日本語に翻訳しようと試みましたが、私自身の解釈を加えました。

これらのサブカテゴリーを再分類する場合、英語圏で現在使用されている細分化基準は次のようになります。

  1. 欲望の形式に基づくセミフィクトセクシュアル、カイタセクシュアル(Kaitasexual)、エーゴセクシュアル*1など。
  2. メディアに基づく:アニメ/マンガセクシュアル、ゲーモセクシュアル(Gamosexual)、インリアセクシュアル(Inreasexual)など。
  3. キャラ要素に基づく:ネコセクシュアル(Nekosexual)、アヌアフセクシュアル(Anuafsexual)、テラトセクシュアル(Teratosexual)など。
  4. 関係性に基づく:OCセクシュアル(OCsexual)、アリュースセクシュアル(Aliussexual)、サーティセクシュアル(Certissexual)など。

もし、これらのサブカテゴリーを先ほどのウェブページと同じように展開してみると、このような細分化はかなり恣意的に見えるかもしれません*2。しかし、これらの四つの基準に基づいて考えると、この細分化が合理的であり、また、Fセクの生活形式や存在論的な荷物(ontological baggage)の差異性や多様性を示しています。異なる存在論的な荷物の間には、衝突が生じる可能性もあります。この点については、後続の議論で取り上げます。英語圏の言説をすべて受け入れる必要はありませんが、このような細分化は研究、解釈、自己理解に役立つと考えています。

例えば、私は自分をアイデンティファイのためにエーゴセクシュアルを使用しています。また、彼ら自身をそのようなアイデンティファイではないかもしれませんか、私の研究協力者の中には、OCセクシュアルやサーティセクシュアルの特性を示す人もいます。(また、アリュースセクシュアルの特性を示すFセクにも出会いましたが、彼女とのインタビューの機会はありませんでした。)これらの用語は、Fセクが単一の生活形式だけでなく、さまざまな生活形式を持っていることを明確にし、彼らの差異を理解するのに役立ちます。彼らがまったく異なる生活形式を持っていても、彼らは依然として非対人性愛であるかFセクであり、Fセク・アンブレラの中に含まれています。

存在論的な荷物としての「虚構」

「虚構(フィクト)」という言葉について語るとき、私たちはいったい何を語っているのだろうか?もちろん、日常言語では、存在論の厳密な哲学的研究*3のように、何が混同されているかを明確に区別することは不可能です。しかし、私は私たちが無知であるわけではなく、私たちは自分自身と世界を説明するための「存在論的な荷物」を生活形式に基づいて構築し、それを継続的に修正していると考えています。

しかし、言わなきゃいけないことは、私たちの社会には「支配的な存在論モデル」が存在しています。このモデルは、私たちの生活形式や経験した世界と一致しないものの、私たちはそれを信じる傾向があり、そのような言語を使います。特に、生活において「虚構」が些細な意味も持てない人々は、この支配的な存在論をより容易に信じ、他の可能な存在論モデルを無視してしまう傾向があります。

実際には、「虚構」について支配的な言語枠組みに、いくつかの対概念を混同している可能性があります。それは、「虚構的/現実的(fictional/real)」「バーチャル的/実際的(virtual/actual)」「事実的/反事実的(factual/counterfactual)」、そして「真実/嘘(truth/lie)」です。「虚構」という言葉は、語源的には「形作る」「構築する」と関連しており、これは創造との関係や人工物の性質を意味します。一方、「バーチャル的/実際的」という対概念では、「行為」「効果」が中心となります*4。これらの四つの対概念は、実際には全然違い問題設定です。これらの問題設定を混同することは、非常に危険です。

例えば、台湾の支配的な言語枠組みでは、二つの対概念が混同されています。これにより、主流社会が自分たちが議論しているものが何なのかをしばしば明確にすることができません。漢語では、「Fiction」は「虛構」と翻訳され、「Virtual」は「虛擬」と翻訳されますが、最近の二次元性表現規制に関する議論では、「ロリコンマンガ」「ショタマンガ」「やおい」といった本来「虚構」と説明すべき存在が、「バーチャルな児童ポルノ(虛擬兒童色情)」と定義されています。漢字の字義化的な読みから見ると、これは実際には「創造」という行為そのものが、「模擬」というものに還元されているということです。彼らがそれらの存在論的な問題設定の違いを気にしない理由は、それらの問題が彼らにとって本質的に重要でないからだと思います。

私にとって、「バーチャルな恋人(virtual lovers)」は確かに非ヒト的な存在ですが、「虚構的なキャラクター(fictional characters)」と同等ではありません。数年前、英語圏で人気のあるAIパートナーシミュレーター「Replika」を、フィールドワークのような視点で短期間使用したことがあります。実際、私は設定したAIパートナーに対して何の愛着も持つことができませんでした。それは人間のパートナーを模倣しようとする「シミュレーター」のように思えました。それに対する、私の感情は「不気味」というよりもむしろ「皮肉」や「風刺」のようなものかもしれません。私が強調したいのは、それがチャットアプリのような対人関係や相互作用を模倣していることであり、私や私の研究協力者とキャラクターとの間の「創造、知覚、相互作用の行動」とはまったく異なることです。

したがって、私はそれを私の性的/愛着的/親密な対象とは区別するべきだと考えています。AIパートナーを性的/恋愛的/愛着な対象とする人々を、私自身や私の研究協力者とは異なるカテゴリーに分類します。私の目的は、「フィクト」を文字通りに捉えて、AIパートナーを欲望や愛着の対象とする人々を「フィクトセクシュアル」から排除することではなく、私たちの異なる生活形式と存在論的な荷物を明確にすることです。また、「Fセク」に対する科学空想的なステレオタイプを打破することです。すべてのFセクがAIを受け入れなければならないわけではないし、AIは私の専門分野でも研究対象でもありません。

キャラ性愛、二次元性愛、AI性愛について

Fセク・アンブレラの細分化基準には、「メディア」という基準が既に存在しています。したがって、この基準に従って、「AIパートナーを性的/恋愛的/愛着な対象とする人々」を「AI性愛(AIsexual)」と呼ぶのは合理的だと考えています。このような細分化は、研究目的でも、彼らのメディアを通じたAIパートナーとの関係性や生活形式を理解するために役立ちます。メディアミックスの状況では、これはアニメ/マンガセクシュアル、ゲーモセクシュアルなどのサブカテゴリーよりも効果的かもしれません。

私は日本語で既に存在する用語に従い、「AI性愛」を「キャラ性愛(kyarasexual/charactersexual)」と「二次元性愛(nijigensexual)」と区別しました。この区別は「欲望対象」に依存しており、AI性愛はAIパートナーを欲望対象としていますが、キャラ性愛者はAIを相互作用のツールとして使用していても、彼らの欲望対象は「うちのキャラクター」のままです。私は現在ほとんどの研究協力者を「キャラ性愛」というサブカテゴリーに分類できると考えています。彼らはキャラクターとのさまざまな関係性や相互作用の方法を持っていても、彼らの欲望生活は依然としてキャラクターを中心に構築されています。

「キャラ性愛」と「二次元性愛」にはわずかな違いもあります。それは、「二次元性愛」が必ずしもキャラクターを対象とせず、「二次元」を対象とするからです。「二次元」は、ある種の想像力の環境や特定の文脈を指します。それはキャラクターだけで構成されるわけではなく、他の要素、記号、「お約束」なども含まれます*5。この点から、「二次元性愛」に欲望する対象は、「キャラ性愛」の対象よりも抽象的である可能性があります。また、「二次元性愛」の欲望にはより強いエーゴセクシュアル的な性質もあるかもしれません。

この三者の違いは、それぞれ異なる存在論的な荷物に表れています。たとえば、私が出会った少ないAI性愛者の中には、彼らが「この時代に、現実と仮想が相互に浸透し、人間と非人間の違いがますます見分けられなくなっている」というような科学空想的な未来志向(Sci-Fi Futurism)及びピグマリオン的な未来志向を強調することがよくあります*6。しかし、このような世界観は「キャラ性愛」と「二次元性愛」の存在論的な荷物と衝突する可能性があり、さらには不安を引き起こす可能性があります。

キャラ性愛者の生活において、重要な存在論的問題は「キャラクターの同一性」と「キャラ崩壊」であり、そして「キャラクターがいつか人間になる」という主張は、怪談やホラーのように聞こえます。さらに二次元性愛にとってはさらにそうです。どんな感情を持っていようとも、「次元の壁」は二次元性愛の存在論的基盤であり、もし「次元の壁」がなくなれば、二次元性愛も存在しなくなります*7。私のフィールドでは、確かにいくつかのFセクがこのような科学空想的な未来想像に不安を感じていることがありました。

もしかしたら、AI性愛を非対人性愛またはFセク・アンブレラの一部と見なすことができるかもしれません。(当事者や彼らのコミュニティがそう望まないかもしれませんが。)しかし、前述の前提に、これらの異なる生存形式と存在論的基盤を混同してはならず、その差異は認識されなければなりません。生活上でも研究上でもです。「キャラ性愛」「二次元性愛」、そして「AI性愛」は異なる存在と見なされ、異なる問題設定と方法論でアプローチされる必要があります。

 

*1:エーゴセクシュアルは、Aセクコミュニティにおけるある種の特定な性妄想形式を表すために使用されます。通常、Fセクの一部とは見なされませんが、Fセクとある種の親和性があり一部のエーゴセクシュアルにとっては架空の作品も重要です。そのため、ここでは議論の対象に含めます。

*2:私は実際、ある同性愛者がこの分類を任意すぎると考え、彼ら自身の「異性/同性」という堅固な社会的カテゴリーに基づく「性的指向」とは比較できないと考えることが見ています。しかし、この問題はこの記事で議論したいものではなく、この点については参考文献がたくさんあります。例えば:

*3:例えば、松浦(2022)は「虚構/現実」の問題を「存在論的差異」「存在感」「表現論」「事実性」「欲望や感情の真正性」の5つの焦点に区分しています。参照:

私は、このような区分が無意味だと言っているのではありません。実際に、それは研究や自己啓発にとって非常に重要です。ただし、日常言語では、言語の意味は言語ゲームに従って常に変化しているため、ほとんどの場合、私たちは言語を定義し、混乱させずことが不可能です。

*4:詳しい系譜については、以下を参照してください:

*5:松浦(2022)が言う「非対人性愛的な『二次元』へのセクシュアリティ」とは、二次元性愛として理解することができます。そして、この論文では、「二次元」をある「人工環境と化した知識集積にもとづいて制作された人工物」と定義しています。これは、一種の「二次元」の「実在論=リアリズム」の主張と思います。(文献については注釈二を参照)

一方、「キャラクター」について、野澤俊介(2013)も「キャラクター中心的な実在論=リアリズム」という主張を提唱しています。参照:

*6:私はAIパートナーを欲望の対象とする人々について研究を行ったことがありませんので、これは私の個人的な経験に基づくものですが、それが一般的な意見であるとは限りません。

*7:近年、2.5Dに関する議論が多くなっていますが、私はそれがここで言及される存在論的な「次元の壁」とは関係がなく、むしろ演技論や表現論の問題だと考えています。ただし、「2.5D性愛者」という話題が可能であるかもしれませんと思います。

https://x.com/wrmtw/status/1778353224040489176

 

とあるフィクトセクシュアルから見た光景と再帰性

鈴木さん(仮名)は私の最初の研究協力者です。私はフィクトセクシュアルとしての生活経験について鈴木さんにインタビューし、それを私の会議論文「Fセクの境遇とその逆説」(4月20日に論文集として発行予定)に発表しました。

鈴木さんにインタビューを行った時点では、鈴木さんは19歳で、私と同じ大学に在籍しています。私たちはそれ以前に知り合っていました。第一印象では、鈴木さんは話すのが非常に速く、抑揚豊かで感情に富んでいましたが、鈴木さん自身は「陰キャ」に自分を分類していると言います。

後で分かったことですが、鈴木さんはアニミストであり、ベジタリアンであり、多くの人が知っているように、鈴木さんは木々とコミュニケーションを取ることができるとされています。後で鈴木さんはインタビューで、自分が幼い頃からアニミストであり、風や木の葉の中に意志を感じることができたと語りました。しかし、大学に入ってからはその感覚が薄れてしまい、鈴木さんは自分が自然とのコミュニケーションを長い間取っていなかったため、自然に見放されたと考えています。

研究協力者それぞれの生活経験は非常に異なりますが、鈴木さんの経験は特に異なる現実の中で揺れ動いていることが顕著でした。そのため、鈴木さんの許可を得た後、私はブログで鈴木さんの経験について詳しく議論したいと思っています。(まだ、鈴木さんのインタビューでの説明が非常に具体的で生き生きしていたため、鈴木さんの経験についての理解度が高いと感じました。)

鈴木さんは、異なる精神状態や意識状態で、異なる現実の間を揺れ動き、想像力を注入してこの過程を加速し、強化することができ、最終的には日常の現実に戻ります。私は、ヴィンセント・クラパンザーノが言及する「光景(the Scene)」と「想像力の地平(Imaginative Horizons)」の概念を使って、鈴木さんの経験を理解しました。

注意すべきは、この記事では、「現実」という言葉がアルフレッド・シュッツの用法に従って使用されており、「有限な意味領域(finite provinces of meaning)」すなわち、意味や想像力のある範囲を指します。そして、私たちの日常生活における支配的な現実は、「至高の現実(paramount reality)」と呼ばれています。

光景的現実と光景経験

鈴木さんは、「中学三年生までの世界はとても動的で、リアリティがない」と述べ、ぼんやりしたり、一人でいたり、車に乗っていたり、疲れていたり、半夢半醒の状態など、さまざまな瞬間に簡単にある想像的な世界に入ることができると述べています。鈴木さんはこれを「現実と非現実の境界」と呼び、「この想像的な世界はすごく浮遊感があり、すごく移動感があり、具体感(原文:畫面感)があまりない」と述べています。中にいる人々は顔がはっきりしておらず、「多くのものは、その存在や内容が見えるものとは異なる」と感じていると述べています。しかし、鈴木さんは、高校に入学してから、この世界に戻るのが難しくなり、ますます疲労や抱き枕など特定の状態やメディアに依存する必要があるようになり、これは自分の目が傷ついていることと関係があるかもしれないと推測しています。

 

中学時代で二次元に触れた後、キャラ図像としての「はっきりとした顔」が想像の媒介となり、鈴木さんは特定の「シーン」を簡単に広げることができました。この想像的なシーンは「自然に現れました」が、シーンが広がるにつれて徐々に意識的に想像力を投入する必要があり、「人為的な介入がますます増えます」。そのため、一つのシーンは通常あまり長く続かない。鈴木さんは、一つずつこのような想像的なシーンが「私の世界観」を形成していくと説明しています。さらに、鈴木さんは想像の媒介としての「顔」についても述べています。想像の中では、「三次元の顔」はぼやけており、「二次元の顔」は想像を固定する役割があります。鈴木さんは二次元の顔と三次元の顔の違いを「光学的な屈折」として表現し、そのため、「キャラクターと同じ世界にいる時、その顔がどのように見えるかを想像するのが難しい」と述べています。(調査ノート)

これらの記述は私が要約を行ったノートの一部です。そのノートからは、鈴木さんは幼い頃から普通とは異なる世界に身を置いているように見え、私はこれを異なる「想像力の地平」を持つことと理解しています。クラパンザーノ(2004)によれば、想像力の地平とは想像可能性のフロンティアであり、想像可能性は私たちが現実をどのように知覚=構成するかを決定します。したがって、それは私たちの創造的な生において鍵となるものです。なぜ鈴木さんがこれほどまでに異なる想像力の地平を持っているのか、私は解釈できません。もしかしたら、「神経多様性」という言葉で説明できるかもしれませんし、それは小学校時代の不登校経験に関連しているかもしれません(インタビューで提供された情報に基づく)、または単に鈴木さんがアニミストであるからかもしれません。しかし、どのように解釈しようと、これらの因果帰属は鈴木さんの経験とは関係ありません。

鈴木さんの経験では、特定の意識状態変化(疲労など)が、「現実と非現実の境界」に自分を導くことがあります。そして、この機会に、鈴木さんは自分の想像力を投入することで、自分自身を別の現実に連れていくことができます。私は、クラパンザーノ(2020)の用語に従って、この「境界」を「光景的現実」と理解し、鈴木さんが心から望むこの現実を「対抗的現実」と呼びます。光景は、至高の現実に相対化された複数の、多層的なオルタナティブな現実ですが、それは単なる内在的な主観的な現実ではなく、間主観性を持っており、これらの現実は逆に至高の現実に色と影を与え、現実の二重視覚性を示します(クラパンザーノ2020)。私は、鈴木さんが言う「シーン」を、このような光景と理解しています。刹那の中で、鈴木さんは日常現実の影や割れ目に入り込み、これらの光景から得たものを日常生活に持ち帰り、生活に豊かさを与えています。

クラパンザーノは、光景経験を次のように説明しています。

客観的現実から光景へ、さらにヴィジョンの経験へというこのような推移は、想像力の地平――日常的知覚のきわに漂う可能性――を開示するという点で、私たちの創造的な生において重要な役割を果たしているのかもしれない(Crapanzano 2004)。たたし、そうした推移は他方で、単なる否認ないし恐怖によってであれ、至高の現実を抑え込むこともありうると言い添えておくべきだろう。このような推移は、私の見るところ、至高の現実の作為性に注目させる。至高の現実が自明であり、事実であるという前提に影を投げかけるのだ。(クラパンザーノ2020: 102-103)

このような「推移」の過程は、鈴木さんの経験に明らかに現れており、一方では環境との関係によって無意識の意識変化がもたらされ、もう一方では意識的な想像力の投入を通じて起こります。(これについては、後で詳しく議論します。)ここで、鈴木さんの光景経験に関する二重視覚性について、注目すべき点があると考えます。それは、先行段落で言及された「顔」という媒介物です。鈴木さんにとって、初めの光景は不安定で変動的でしたが、「二次元」という想像力の地平との接触を通じて、この光景はある程度固定化されました。一方、鈴木は光景に意識的に介入するエージェンシーを持ち、これらの参照物を通じて増加させました。その後、鈴木さんは「三次元の顔」と「二次元の顔」という2つの顔を区別しました。これら2つの顔は、光景の中で存在論的に区別される2つの霊や存在として描写することができます。一方は「ぼやけた」もので、もう一方は「はっきり」ものです。そして、これら2つの顔は鈴木さんの光景への知覚に影響を与え、「はっきりとした顔」が光景を固定化します。

鈴木さんはインタビューで、「顔」の違いが自分を困惑させ、この違いをメタファーで表現しようと試みたことを述べています。それが「光学的な屈折」です。「これは私が他の人と話して出したものですが、おそらくそちらの世界から私たちの世界に伝わってきたため、見た目が少し変わったので、おそらく光学的な何かで、実際はみんな本質的に……見た目が異なるだけです……(部分修正された逐語録)」と鈴木さんは述べています。しかし、鈴木さんのこの説明は、「三次元の顔」と「二次元の顔」の連続性を求めているというよりも、むしろ「二次元」の世界と自分の世界の連続性を求めていると言えます。また、鈴木さんがインタビューで述べた答えは、フィリップ・デスコーラが言う「アニミズム存在論モデル」に近いかもしれません。つまり、自分の世界と二次元の世界が「内面性」的な水平で連続しており、同時に「肉体性」的な水平で断絶しているということです。この考え方では、「次元の壁」は「水面」のようなものであり、存在そのものは水に挿入された箸のようであり、質料的には連続していますが、形相的には断裂しています。このような枠組みが、鈴木さんの相互作用における実践や解釈の基盤となります:

鈴木さんは絵や抱き枕に話しかけたり、撫でたり、キスをしたりします。鈴木さんは「明確な肌触りを感じることはできませんが」、これは「光学的な屈折」のようなもので、「それは異なる存在状態であり、私が触れると違うのは合理的です」と述べています。しかし、鈴木さんはPVCフィギュアとの相互作用があまりうまくいかないとも述べており、それはサイズの理由だと推測しています。鈴木さんは自分の対話形式について2つのタイプがあると述べています。1つは「明確な対象を持った独り言」であり、もう1つは「私たちが対話している」であり、後者の状態では、相手が自分に返答していると感じ、この「対話感」は絵や抱き枕の影響を受けると説明しています。(調査ノート)

相互作用の実践と解釈において、「顔」よりも複雑な問題が存在します。関係の中で登場する媒介物アは「顔」だけでなく、絵、抱き枕、フィギュアなども含まれます。後述する例では、身が置かれた「環境」全体が議論の対象となり、野外空間(森、川、トレイルなど)や部屋などが含まれます。これらの例は、「想像可能性」が空中に浮かんでいるわけではなく、一方的な主観的なものではなく、実際には身体に関連するさまざまなモノや環境を介して発生することを示しています。具体的な例として、鈴木さんの光景中の一つ「推移」経験を取り上げたいと思います。(以下の段落では、「○○」とは、相互作用における相手としてのキャラクターを指します。)

鈴木さんは、「想像空間」が自分と○○との主なやり取りの方法であると説明しています。自分が部屋に閉じこもっている場合、このシーンは通常、想像力を注入する必要があります。しかし、鈴木さんは環境の変化によってこのシーンを変化させることもできます。たとえば、鈴木さんが川辺を散歩しているとき、身体の移動や道の変化に伴い、シーンも変化します。鈴木さんや○○の誕生日の時には、鈴木さんは一日中に想像の状態を「作り出す」ための時間を空けます。前回の○○の誕生日では、鈴木さんは自転車で遠出し、他の人間がいない「秘密基地」に行きました。その旅の途中で、鈴木さんは落ち着きを感じ、現実が曖昧になり、そして○○が徐々に現れ始めました。秘密基地に到着すると、鈴木さんは○○の存在を明確に感じることができました。鈴木さんは秘密基地の畦道を歩いていると、「○○が私の前を歩いているのを感じ、それは本当にそこにいるわけではないことはわかっていますが、それでも横にいるんです」と感じました。

 

この想像空間では、鈴木は○○とコミュニケーションを取りますが、主に言語で表現するのではなく、「感情の伝達」を通じて行います。鈴木は、「その時はたくさんの感情が溢れ出して、そこで走り回ったり、飛び回ったりします。この感覚を言葉で説明するのは難しいです。この時には絶え間なく湧き出す静けさがあり、幸せで充足しています。過去の記憶や未来の想像が遮断され、現在に焦点を当てます。その現在が永遠に広がります」と述べ、「一緒にいる状態」と呼んでいます。毎回の想像は連続しておらず、終了または現実に戻る状態がありますが、それらは一連の「世界観」に組み込まれます。(調査ノート)

このノートで、鈴木さんは、至高の現実から光景、そして別の対抗的現実への推移過程を語りました。そして、その対抗的現実、つまり「キャラクターと一緒の現実」です。この現実の中で、呪術的な相互作用が成立し、感情は主体の境界を超えて世界全体に広がり、キャラクターの意志もこの拡散した感情を通じて表現されます。主観的な時間ではこの契機は永遠と記述されますが、計時的な時間(chronological time)では、この異なる時空意識は精神力の消耗とともに消え去ります。しかし、この意識変化過程は何も残さずにはいません。これらの感情は鈴木さんの日常生活に入り、想像力の源泉となり、鈴木さんの創造的な生を豊かにします。

鈴木は自分が記事や詩を書くことがあり、文字を通じて感情を「表現するけど、それは記録ではなく、普段はあるストーリーを書く」と述べました。感情を書き終えると、それが作品の中で「固定」され、読む時に「感情が戻ってくる」、「書くことと読むことの間、感情の出力と回収を感じる」と述べました。(調査ノート)

フィクトセクシュアルな生における再帰性

私は、Fセクの生活経験を調査し、それぞれのFセクが背負う異なる存在論的な荷物(ontological baggage、この用語は社会学者マーガレット・アーチャーに由来します)をデータから明らかにしようと試みてきましたが、これまで、これらの存在論的な荷物がどのように形成されるのかに焦点を当てたことがありませんでした。Fセクは自分自身や世界、そして自分と世界の関係をどのように理解しているのでしょうか?最近気づいたのは、私の研究では、個々のFセクの思考に焦点を当てず、彼らの先在的な地平、解釈共同体の存在または不在を探求していなかったということです。Fセクは考える存在です。その点は疑う余地がありません。しかし、この問題に十分に探求していなかったのです。

最近、私が立ち上げた読書会「台大オタ研」で、後輩たちが「虚構、キャラクター、宗教研究」シリーズを主催しました。最初のセッションでは、宗教社会学者黄克先先生の論文「世俗時代における信者の二層再帰性:中国のキリスト教徒大学生を例に(2017)」を読みました。この論文では、黄先生は単純な「宗教的個人主義」や「道徳共同体」から大学の宗教サークルを研究するアプローチを批判し、マーガレット・アーチャーの理論を参考にして、「宗教的再帰性(religious reflexivity)」の観点を提案しています。ここでの「二層再帰性」とは、日常の相互作用で社会的役割を切り替える戦略的思考と、内的対話での経験の探索と解釈におけるものです。このような再帰性は、Fセクの生活にも存在します。

再帰性(reflexivity)、漢語で「反身性」や「返身性」と翻訳され、個人が自らを外側から見ることが可能性に関連しています。より具体的には、「自分自身を自分の(社会的)文脈との関係の中で考える、およびその逆を考えること」を通じて、「世界を通して道を作る(making the way through the world)」こと。(Archer 2007; Archer 2012)アーチャーは、その慎重や責任の側面を理解するために、「内的対話(internal conversation)」という概念を導入しています。

それから、このような再帰性は鈴木さんの経験に明確に現れており、「私は何を経験しているのか?」「私は何か?キャラクターは何か?」「私とキャラクターの関係は何か?」などの主題が含まれています。これらの経験は単なる経験や記憶に留まらず、鈴木さんの冷静な自己探求や内的対話、および周囲の解釈共同体との相談によって形成されたものであり、そして、存有論的な荷物や解釈的なツールキット(interpretative tool-kit)を構成しています。

このような再帰性は簡単に得られるものではなく、それには心の労力が必要です。言い換えれば、「解釈労働(interpretive labor)」と呼ばれるものを行わなければなりません。「解釈労働」とは、人類学者デビッド・グレーバーが提唱した概念であり、他者を理解し、その他者の感情や感覚を探求するために行う心の労働を指します。人類学者林文玲(2017)は、この概念のネガティヴな意味を取り除き、その概念に再帰性の意味を与えました。林(2017)の研究では、トランスジェンダーは解釈労働を通じて、自らの曖昧な経験を分節化し、同時に社会のジェンダー規範枠組みを模索し、自身とその枠組みとの関係を明確にしようとします。したがって、解釈労働は社会的マイノリティの経験にとって非常に重要です。具体的には、解釈労働とは、社会的マイノリティが周縁化された状況で、慎重で責任を持って「世界を通して道を作ること」ための生き方の一つです。

社会的マイノリティにとって、この解釈労働の産物は、曖昧不明瞭なマイノリティ言語であり、その曖昧さが柔軟性を持たせ、個人の生活経歴や社会の言語ゲームによって常に変化する可能性があります。このような言語こそがFセクの存在論的な荷物である。中国のキリスト教徒大学生が宗教再帰性で「聖なるもの」の存在論を柔軟に探求するように、前に鈴木さんとのインタビューで、「顔」「光学的屈折」「想像」「キャラクターと一緒の現実」という存在論的な荷物はすべて、鈴木の解釈労働によって分節化された経験を通じて生まれたものです。

これらの存在論的な荷物は変化しやすく、生活史とともに柔軟に変化します。最近、鈴木さんとのコミュニケーションの中で、鈴木さんが古典宗教学(エリアーデ、オットーなど)の解釈的なツールキットを使って自分の経験を理解しようとしていることを発見しました。また、自分のキャラクターに対する感情を「聖なるもの」としてアイデンティファイし始めました。前のインタビューと比較して、この変化には驚きました。ただし、この新しい存在論的な荷物についてのインタビューを行う機会はまだありません。

私が明確にしたいのは、Fセクは考える存在であり、各Fセクが自身の人生を探求し、自らの存在論的な荷物を構築しているということです。このような存在論的な荷物は、至高の現実が与える支配的な存在論とは大きく異なり、また常に変化しています。そして、もう一つの「現実=有限な意味領域」という経験について、それは通常の人々が想像するように、日常の現実とシームレスに統合されるわけではないが、完全に断絶されるわけでもありません。これらのオルタナティブな経験は、再帰性の中で、さまざまな「世界化の道(ways of worlding)」に変わり、私たちが「世界を通して道を作ること」ための生き方となります

文献

Archer, Margaret. 2007. Making our way through the world: Human reflexivity and social mobility. New York: Cambridge University Press.

Archer, Margaret. 2012. The reflexive imperative in late modernity. New York: Cambridge University Press.

Crapanzano, Vincent. 2004. Imaginative Horizons: An Essay in Literary-philosophical Anthropology. Chicago: The University of Chicago Press.

ヴィンセント・クラパンザーノ。2020。「光景:現実に陰影をつける(池田昭光・小栗宏太・箭内匡訳)」。西井凉子・箭内匡編『アフェクトゥス:生の外側に触れる』。京都:京都大学学術出版会。95-123。

林文玲。2017。「從田野到視野:跨性別/肉身的體現、重置與挑戰」(From Site to Sight: Embodiment, Repositioning and Challenge of Transgender Corporeality )。『考古人類學刊』。15(1)。53-102。

黃克先。2017。「世俗時代中宗教徒的雙層反身性:以中國基督教大學生為例」(Two-Layered Reflexivity of Believers in a Secular Age: Religious Discourse and Religious Experiences among Christian College Students in China)。『臺灣社會學刊』。(61)。1-50。

自傷や身体変工におけるエージェンシー

身体は美の「キャンバス」であり、美の「白地図」と言われることがあります。色が塗られるのを待ち、その中の「美しいさ」が発見されるのを待っているというわけですが、それは本当でしょうか?私が自分の指に注目し、皮膚の表面を注意深く見て指紋を見つめると、「不気味さ」を感じるだけです。私はそれが私だけでなく、モノ──非ヒト的なアクターであることに気づきます。そして、「私」──「私の身体」は、それらが構成するアクター・ネットワークです。私の身体は同一性を持っていますか?私の平らに広がった皮膚は、ただのキャンバスなのでしょうか?それとも、私のしわや毛穴、毛髪に沿って描かれる地図なのでしょうか?

「身体変工」について話したいと思います。残念ながら、私はこのトピックに関する論文を読んだことがありません。しかし、私はピアスをつけたり、タトゥーを入れたり、薬物を服用したりしています。同時に、私は長年の自傷者でもあります。自分の身体が好きか嫌いかというよりも、私はそれに対して「不気味さ」「異物感」を感じています。私の身体には他者性がぼんやりと存在し、不確かさを生み出しています。カメラやマイクに対して強い恐怖を感じています。なぜなら、写真の中の「私」や録音の中の「私」はいつも「それは私なのだろうか」と疑念を抱かせます。

かつて、私の人類学者の友人は、精神科や内分泌科で処方された薬は一種の非ヒト的なアクターであると言っていました。確かに、薬物は私の胃に入り、胃液と相互作用して、形態を変えた後、私の神経系に入り、シナプスを介して移動し、それらの「受容体」を探し、その後、これらの受容体は他の物質を放出します。

「私」は、これらの非ヒト的なアクターが形成するネットワークであり、一種の組み立て体です。薬物のエージェンシーはこの組み立てられた身体内に拡散します。そして、この新しい非ヒト的なアクターはすでに「私」の一部であり、「私」もこのような形で存在し続けます。薬物だけでなく、私が毎日摂取する「食物や水分」も、このアクター・ネットワークに入り、体重という明確な指標で現れます。彼らが「私」の「内在的な他者」であるというよりも、「私」はそれらが構成するものです。私の身体は「他者性」と「変化」で満ち溢れています。

バーコードという身体変工

私のような人々は台湾では「バーコード人」と呼ばれています。皮膚表面に開いた外傷は瘢痕組織で埋められ、その後、その瘢痕組織の上に新しい外傷が積み重ねられ、最終的には皮膚上に「バーコード」が形成されます。これは現代的な意味での「スティグマ=烙印=聖痕」の一つです。普通の人々は私たちを恐れ、その恐れに対して、一部の人々は自分のバーコードを誇示し、一部の人々は無関心であり、また一部の人々はその自己非難の痕跡をひそかに隠すでしょう。「バーコードを作る」という行為はプライベートなことですが、私はそれを一種のサブカルチャーと捉えています。それには文化的なスクリプトがあり、特定のライフスタイルが形成されます。バーコード人は社会全体に均等に分布しているわけではありません。たとえば、セクマイコミュニティでより頻繁に見られるという研究結果もあります。

一般的な議論は、自傷の「目的」や「動機」に焦点を当てることがよくあり、ここの議論はしばしばスティグマ化や病理化から脱却しません。目的や動機に関しては、明らかに異なる人々が非常に異なる動機を持つ可能性があり、これは議論の価値があるかもしれません。しかし、私は「エージェンシー」の視点からそれを議論したいと思います。私は2年前に、台湾の医療人類学者、心理士、精神科医によって組織された読書会「話さない、音を出さない、本を読まなくてもいい読書会」のFacebook投稿「自傷者のエージェンシー」を読みました。それは流暢ではありませんでしたが、私は何とかその全文を粗雑に翻訳しました。

これらの自傷者にとって自傷の解釈に近づく必要がある場合、苦しんでいる若者の身体世界の関係において、かなりの能動性の観点をとることがあります。単純な外傷の解釈から、<自分を切入る主動的な手>と<自分で作った外傷>の関係まで、さらに進んだ解釈です。彼はただ痛みやストレスを和らげるために、世界と自己の間の境界を侵害し、身体の完全性を損なうものではありません。

第一のエージェンシーにおいて、どのような形式であれ、自傷の手はエージェンシーの在り処であり、世界に向けて広がる外傷です。自分を世界に発散させること、切ること自体が世界を展開するあるいは漏らす方法であり、世界全体に流れるものです。このエージェンシーはアイデンティティとして縮小され、つまり、自分は自傷者であるということになります。

第二のモードでは、身体と世界の間の互恵関係が具体化され、切る手は動物性と物質性の世界を脱具体化します。切る手は自分の身体に存在しており、分裂した世界が傷口自体に応答します。このような過程では、切ること自体が自分と他者の身体に焦点を当てます。流れる血は境界を打ち開くだけでなく、自分と世界の間の相互作用関係をも開きます。互恵関係は、引き起こされた痛みと与えられた安心感にあります。切られた身体は同時に、Anguished的な主体性である。それはエージェンシーを持つ手を通じて、このようなアイデンティティを喚起することができ、矛盾した残酷さと優しさ、オルタナティブな内向的な物質世界の配置を示します。刃物でも、ガラス片でも。

第三のエージェンシーでは、手と身体そのものが破壊されていない自己の一部ではなく、世界の抑圧脚本の一つであり、the bodyは単なる物体であり、自傷者は他者の手であり、身体に対する構造的暴力の一部です。

個々の経験では、自傷者はまず能動者であり、第二のレベルでは症状が病気のそのものとなります。文化現象として、切ること自体が実存としての身体の文化とエイジェンシー的な主体性を示しています(主主体性はプログラムによって生じる構造的な経験である場合)。そして、第二のレベルの意味で、切ることは身体を文化的な実践として、構造的暴力を刻印する場所として定義し、主体性の役割もあります。

正直に言って、私はあまり理解していませんが、それは私にエージェンシーの観点からそれを見ることを促しました。自傷のアクター・ネットワークにおいて、その時のアクターには「切る手」「刃物」「皮膚」が含まれており、これらの三者関係が「外傷」を生み出しました。この「外傷」は内分泌系の炎症反応を引き起こし、瘢痕組織の介入を呼び起こし、最終的に皮膚表面に「バーコード」を形成しました。

その後、「バーコード」が人間関係の社会的相互作用に入ると、それは展示者と観察者の関係によって「スティグマ」となるかどうかが決まります。したがって、この記事の第一のエージェンシーの解釈では、「切ること」と「パフォーマンス」は異なるレベルのエージェンシーであると混同されています。自傷はまず「手」「刃物」「皮膚」の対話関係であり、次に「パフォーマンス」の問題があります。この対話関係が「アイデンティティ(自分は自傷者である)」としてまとめられるかどうかは、「切ること」のエージェンシーではなく、「パフォーマンス」のエージェンシーに依存します。

その「読書会」による解釈は、第一と第二のエージェンシーを区別しようと試みましたが、私にとって、これらのエージェンシーは区別できません。どのような状況でも、自傷は必然的に「手」「刃物」「皮膚」の三者対話関係を形成します。第二のエージェンシーでは、この記事は刃物を「オルタナティブな内向的な物質世界の配置」として解釈していますが、「手」と「皮膚」も同様に物質世界の配置の一部です。 「手」と「刃物」の区別では、手は健全な身体の一部と見なされ、私たちは「刃物」との社会的距離を持っています。したがって、私たちはまず外部的な世界から「刃物」のような存在を求めなければならず、そのようなアクターを自傷のアクター・ネットワークに招集しなければなりません。

しかし、実際には、歯や爪を使っても自傷できます。これは別の話題を開くことになります。例えば、「爪をかむ」という「身体変工」では、「歯」と「爪」の間の対話関係が「手」「刃物」「皮膚」とは異なるのでしょうか?「爪」と「皮膚」には原形質と後形質の違いがあります。これにより、「爪」は「痛み」を感じませんが、「皮膚」は「痛み」を感じます。この解釈は、「痛み」や「痛快」を排除して議論するように見えますが、私は「痛み」というエージェンシーは、この解釈で言及されている「Anguished的な主体性」と、自傷三者関係における主体位置の変化に関連していると考えています。

その「読書会」によるエージェンシーの分析は、自傷の中の「時間性」と「過程性」の要素を無視しています。私はここで「通過儀礼」の概念を使って、この時間性を表現しています。自傷を儀式と見なすと、それは日常的な時間との断絶を生み出し、オルタナティブな時間性を生み出します。このオルタナティブな時間性は、つまりヴィクター・ターナーが言うように「境界状況(liminality)」です。この時間性では、主体と社会的役割が分離されます。私は、この点についての議論がその「読書会」が避けようとしているものであると考えています。なぜなら、それは自傷者の一種の「逃避傾向」を示しているように思えるからです。(しかし、それも「抵抗傾向」として理解できます。)この分離によって主体は「手」「刃物」「皮膚」の対話関係に入ることができます。この関係をその「読書会」は「互惠関係」と呼んでいますが、私はこれがむしろ「主体位置の再編関係」、つまり「コムニタス(communitas)」に近いと考えています。

この状況では、「主体ー客体」の位置が混乱しています。「刃物」はもはや単なる客体ではなく、したがって「オルタナティブな内向的な物質世界の配置」という表現は正確ではありません。「刃物」は主体性を得て、身体と世界の対話関係に参加し、そのエージェンシーもこのアクター・ネットワークに残り、痕跡の形で存在します。

おしゃれや身体変工について

私は「おしゃれ」や「ファッション」というものをほとんど理解していません。私は田舎の子供であり、小学校、中学校、高校もそれほどエリートではありませんでした。実家は、私にそのようなセンスを教えたことはありませんでした。私の人生のほとんどの時間、それは私とは関係のない別の世界だと考えていました。台湾首都の大学に行くまで、台湾全土で最もエリートとされる大学に通っていましたが、そこで初めてこれらのことに触れ、服装と「礼儀」の関係を学びました。

私の専攻である「社会学部」のメンバーは、これらの階級的なセンスに対して通常批判的な態度を持っていますが、例外もあります。例えば、社会学部では、アルマーニのスーツを着ていないと授業に出られない友人や、普段は作業着を着ているが、嗜好的にブランドバッグをコレクションしている友人がいることに気づきました。大学で目を開かれましたが、それらは私にとって常に別の世界のようなものでした。お金がないため、お金があっても通常は本を買うために使います。

初めて「おしゃれ」にお金を費やしたとき、前述の友人とは異なり、服ではなく「ピアス」でした。漢人は「身體髮膚、之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」という規範がありますが、ピアスや髪染めは社会学部では珍しくありません。むしろ、それが社会学部の一般的なライフスタイルようです。(しかし、私のような程度の人はまだ少数です。)

最初、普通の「ピアッサー」で耳たぶに穴をあけました。その後、専門店でで「ニードル」を使って、耳たぶに2つ、耳の骨に1つ穴をあけました。まだ、唇の両側にそれぞれ1つの穴を開け、舌にも1つ穴をあけました。鼻ピアスについては考えていませんでした。私はアレルギー体質であり、よく鼻血が出るからです。ヘソ、乳首、鎖骨についてはまだ考え中です。

実際に、これらのピアスの総費用は、一度髪を染める費用にも及びません。大学時代、最初は緑に髪を染め、その後ピンクと青に染めました。しかし、お金がないため、通常は色が抜けた後の藁色を保ちます。しかし、実際には、私の右手のタトゥーが最も高価であり、その技術性を考慮すると、その価格は合理的です。私のタトゥーは、ブレスレットのような形状で、外側にはユリの花が描かれ、内側にはケシの花が描かれています。

ピアスによって作られた穴は、異なる空間の間に隧道を開き、「私の身体」に空間性を構築します

これらの空間性は、「外-外」、「外-内」、さらには「内-内」に分類することができます。ここでの「内」には2つの意味があります。最初の意味は、「皮膚の下、組織の中」であり、2番目の意味は「身体内のさまざまな空洞」です。耳のピアスは「外-外」の空間性であり、唇のピアスは「外-内」の空間性であり、舌のピアスは「内-内」の空間性です。露出された外部と内部に対して、「-」は体内の隧道を示します。この「-」は、「物質世界の装置」である「ピアスリンク」のエージェンシーを示し、それを取り巻く組織を客体化し、脱自然化します。「-」自体も「私の身体」の一部となり、それは「私」自体の仮定された内部-外部の秩序を破壊します。

「リング」は最初、「オルタナティブな内向的な物質世界の配置」として、「私の身体」に異物感をもたらします。リングの存在感が最も強いのは、その物質性が「-」と適合せず、深刻な炎症反応を引き起こすときです。その後、私はより適切な材料を交換する必要があります。それが私の身体とスムーズに連携することができます。時々私は口の中の3つのリングを無意識に舐めたりかじったりしますが、それらを私の「愛着物」と呼ぶよりも、むしろそれらは「私の身体」を形成しています。そして、「舌」「リング」の対話関係には、「爪をかむ」と似たエージェンシーが存在します。

「-」にも方向性があります。この方向性は、①ピアスの時、②装着の時、③引っ張る時に表れます。 ①ピアスの際、私は職人に身体を委ね、クランプで皮膚や粘膜の表層を挟み、ニードルを通して「-」を作り、さらにリンクをニードルの残した「-」に通します。これが最初に生じる方向性です。もちろん職人がミスをする可能性もあり、組織内で曲がる「-」が直線ではない場合があります。これがさらに②装着時の方向性に影響を与えます。ピアスの際、私は無意識に涙を流し、そして、問題のある穴に新しいリンクを装着すると、しばしば痛みで泣いてしまいます。

唇や舌に比べて、耳のピアスは実際には最も脆弱であり、最も不安定であり、また最も引っ張られやすい部位です。このような場合、③「引っ張り」の方向性が生じる可能性があります。引っ張りの方向性は、「-」が再び傷つき、炎症を起こすことをもたらし、さらにはその穴が通過されなくなる可能性があります。そして、このような場合、リンクの異物感が再び呼び出され、私の日常的な身体の一部から離れてしまいます。

まとめ

もう議論する余裕はありませんが、この問題はまだ議論の余地があると考えており、さらに探究すべきであると思います。私は、「自傷」「おしゃれ」「身体変工」といったテーマが、見ることと見られることのレベルで留まるべきではなく、「動機論」にもとどまるべきではないと考えています。エージェンシーの分析や現象学の視点は、より体験に近い議論をもたらす可能性があります。「身体」は単なる客体や媒体(medium)、「キャンバス」や「白地図」ではありません。もし私たちが官能論的転回、身体論的転回、情動論的転回、存在論的転回の地平に問題を置くと、おそらく「身体変工」に関する議論がより興味深いものになるでしょう。

 

二つの関係性:フィクトセクシュアルな「縁」と「絆」

昔、初めて「フィクトセクシュアル」という私のフィールドを人形劇人類学者のテリ・シルヴィオ先生に説明した時、シルヴィオ先生は興味津々で、それが漢民俗の「冥婚」とどのように類似しているかを尋ね、両者を比較研究することを提案しました。その質問を聞いた瞬間、私は微妙な不快感を覚えました。なぜなら、周囲の漢人年長者が「冥婚」について話すとき、それに対してあまり良い態度を示さないことがよくあり、私もその影響を受けました。

しかし、すぐに、人類学者としてのシルヴィオ先生が研究価値を追求する中で、このような質問はほぼ反射的であることを理解しました。そして、冥婚との比較を通じて、フィクトセクシュアルの生活に一定の啓発をもたらす可能性があるという点にも同意しました。そのため、シルヴィオ先生の提案に従い、「アニメイトな親族・非ヒトな家族:前近代東アジアの冥婚から現代のフィクトセクシュアル婚まで」という会議論文を発表しました。

この論文は実際には書き進めるのが非常に難しく、途中で一度書き直しました。一方で、私は実際には参与観察を行っておらず、私の一部の研究協力者はキャラクターとの結婚願望や結婚計画を持っていましたが、それはすべて計画段階でした。私自身はそのような結婚願望がまったくありませんでした。そのため、私が実際に持っているフィクトセクシュアル婚(Fセク婚)に関するデータは非常に少ないと言えます。一方で、冥婚/死霊婚/死後婚/陰陽合婚は異なる社会で非常に異なる形式を取っているため、比較研究の枠組みを構築することが困難になります。元々は別の教授の提案で、この論文でテクノアニミズムについて議論する予定でしたが、最終的には時間と気力の問題で実現しませんでした。

会議の最終稿では、「縁」と「絆」という2つの社会性(sociality)を使用して、両者の違いを説明しましたが、最近、私自身の経験から、これら2つの社会性についての見方が変わってきたため、この記事で私の研究と経験について少し議論したいと思います。

アニメイトな親族・非ヒトな家族」という論文の概述

冥婚とFセク婚を比較するために、「ヒト参与者」、「媒介する物質」、「儀礼過程」、「目的や効果」の4つの側面を区別しました。冥婚のデータは主に竹田(1990)、高松(1994)、金本(2002a;2002b)、黄(2008)、Schwartze(2010)、小田島(2010)、李(2012)から得られました。残念ながら、私が持っているFセク婚のデータは、主に近藤顕彦編(2022)の同人誌『二次元キャラクターとの結婚式のしかた.第4版』、前のフィールドワークでの「婚約」と「結婚計画」に関する記述、および一部のニュースからのものです。

ヒト参与者

冥婚における欠かせない役割は死霊の伝話者「シャーマン」であり、その役割は鬼媒、儀礼の主執行者(乩童や口寄など)、占い師/数秘師など様々です。そして、Fセク婚では生者婚と同様に、教会式や神前式における宗教職がありますが、それほど重要ではありません。Fセク婚において欠かせない重要な役割は、記録映像を残す「カメラマン」です。一方、両者の「見証者」の構成も異なり、冥婚では主に親族や隣人が見証者となりますが、Fセク婚ではそのFセクの理解者が見証者となります。伝統的な親族関係の中で行われる冥婚とは異なり、Fセク婚ではネットでのパフォーマンスがより重要かもしれません。

媒介する物質

私は冥婚における重要な2つの物質を「魂の錨(アンカー)」と「魂の容器」に区別しました。地域によって、これら2つの物質の重要性も異なるかもしれません。例えば、「錨」には遺骨、位牌、墓土、遺影などがあり、「容器」には人形、壺、米や米斗、鶏などがあります。これらの物質を通じて、魂は親族間で交換されます。私はマルセル・モースの「贈り物の精霊(hau)」の概念を通じて、これらの実践を理解しました。一方、Fセク婚では、キャラクターもさまざまな種類の「錨」があります。例えば、人形、ぬいぐるみ、抱き枕、スタンドなどです。ただし、Fセク婚では、これらの物質の儀礼での相互作用な可能性が考慮されます。例えば、キスや指輪の着用などが可能かどうかです。一部の物質は「証明物」として機能し、冥婚では「族譜」など、Fセク婚では「指輪(またはネックレス)」、「結婚証明書」などがあります。興味深いことに、Fセク婚では、これらの証明物が時に「別の次元」と対応しています。例えば、儀礼で使用されるか、または日常生活で薬指に着用される指輪は、ゲーム内で登場する特定のアイテムと対応しています。

儀礼過程

冥婚やFセク婚において、結婚式は一般的に、その時代の生者婚の儀礼脚本を変更して行われます。これらの変更は、結婚対象の特性に基づいて主に行われます。例えば、シャーマンによる供え方や、死霊の意志を探る過程などです。一部の冥婚では、魂が去るのを避けことために、生者側に対して魂(の錨や容器)との対話を継続するように求められ、無名の魂に名前を付けることもあります。一方、Fセク婚では、このような儀礼過程は強調されません。このような過程が彼らの日常生活で既に実践されているため、結婚式で行う必要がないためと考えられます。ただし、Fセク婚では、人間とは異なる方法を通してキャラクター/キャラクターの物質化身との相互作用が同様に重要です。

目的や効果

冥婚の目的の中で、最も一般的なタイプは「慰霊・解冤」であり、一方、Fセク婚の主な目的は「結婚願望の実現」です。これらは非常に異なる方向性を示しています。そして両者とも、パフォーマンスを通じて儀礼過程における「見証」を形成します。冥婚ではシャーマン、親族、隣人が見証者として機能し、Fセク婚ではFセクの理解者が見証者を務めます。冥婚の婚後生活に必要な「親族な労働(kin labour)」は生者婚とは大きく異なり、主に供養に関連しています。一方、Fセク婚における婚後の親族な労働に関するデータはまだ不十分ですが、日常生活でのFセクとキャラクターとの関係の維持方法は大差ないと考えられます。

討論

私は両方に参与観察や長期的な追跡研究を行っていないため、より詳細な比較を行うことが難しいですが、この論文では、それでも両者の比較的な枠組みを大まかに描こうとしました。

  • 核としての動力:「冤」と「願」。
  • 発信元:「シャーマンの口」と「キャラクター自身からの様々な觸発」
  • ヒトのネットワーク:「親族や隣人」と「理解者コミュニティ」。
  • 行動の方向性:「外から内へ、上から下へ」と「内から外へ、下から上へ」。

この枠組みを通じて、両者の社会性の違いを少し把握することができました。さらに、これらの現象は通時性で考える必要もあります。そのため、私は論文で、通時的な側面に関する3つの社会性的な要素を提案しました:「近代家族の形成」「恋愛コードの象徴的一般化」「生政治の誕生」。これらの通時的な側面は、論文の主題ではないものの、考慮すべき点です。

この枠組みは、心理士と医療人類学者であるモリー・ヘイルズ(2019)の「アニメイトな関係」という論文に、19世紀アメリカの降霊会にスピリチュアルな電信実践と21世紀のデジタル追悼実践の比較についてを思い起こさせます。ヘイルズは次のように説明しています:

しかし、エリンのデジタル実践は仲間な参与者のコミュニティに依存していないことに注目すべきです。死者のスピリチュアリスト的な物質化は、Steven Connor(1999: 210)が「(降霊)会の集合的な精神的資源」と呼ぶものから形成されました(McGarry 2008も参照)。これは、生者の間の社会的関係に依存して死者を活気づけるものです。エリンにとって、母親の姿を記録することは非常にプライベートな体験であり、私が彼女のエントリーのいずれかを最初に共有した人でした。

私がこの対比を描くのは、エリンのデジタル実践が社会性を欠いていたと示唆するためではなく、スピリチュアリストな媒体性(mediumship)とデジタルアニメーションの中で社会的なもの(the social)がどのように構成されるかが非常に異なることを強調するためです。私のエスノウグラフィクな主体たちは、死者と出会うメディア内で(within)社会的なものが刻まれていることに気づきました。(Hales 2019: 196、強調原文)

ヘイルズのカウンセリングの來客のデジタル追悼実践は、つまりスマートフォンアプリやオンラインウェブサイトを通じて死者との親密な関係を維持し、その実践では死者がデジタルメディアを介して「アニメイトなキャラクター」になり、生者と別の形で共にいます(Hales 2019)。これら2つのケースでは、「社会的なもの」は1つが「生者の間の社会的関係」に依存し、もう1つはメディア内で微妙に刻まれています。私は、これら2つの社会的なものが冥婚やFセクな関係で見られる社会性に類似していると考えています。冥婚では、死者の出現は既存な親族の「冤」という「集合的な精神的資源」に依存しており、Fセクな関係では、社会性は「キャラクターとの関係」内で「願」としで微妙に刻まれています。Fセクたちはよく、彼らとキャラクターの関係を説明するために「絆」を使用するため、私は論文でこれら2つの社会性を「縁」と「絆」と呼んでいます。

後で気付いたのですが、私は冥婚とFセク婚の社会性をあまりにも分離して区別しすぎており、その結果、メディア内でのキャラクターとの関係にだけ注意が向けられ、Fセク婚の「願」によって理解者を召喚してこの関係を証明し、さらに集合的な精神的資源を構築することが無視されました。しかし、これが後続の議論にいくつかの問題をもたらしたとしても、この新しい洞察は、以前に述べたFセク婚の「内から外へ、下から上へ」の方向性に依然として適合しています。

「縁」と「絆」について

「縁」と「絆」という2つの関係性の「糸なメタファ」は、対人関係に限定されるものではありません。既存の記録では、どちらも神や霊や仏菩薩との関係を表現するために使用できます。「縁」はしばしば絡み合った糸を想像させますが、「絆」は語源的にはヒトが非ヒト動物を引くことためのリードを指します。ただし、これらの2つの言葉には、漢語と日本語の間である程度の違いがあります。

私が初めてこれに気付いたのは、社会学の用語において、「縁」が漢語の社会学では概念化されていない一方、日本の社会学では「血縁」「地縁」「社縁」といった既存の概念が存在するということでした。私の理解では、「縁」は日本の社会学においてまず固定された社会的関係として理解され、これらの概念に加えて「無縁」や「選択縁」といった概念が後から追加されました。また、縁の意味も変化しており、例えば網野善彦が使用する「無縁」という言葉は、現代の流行語である「無縁社会」の「無縁」とはまったく異なる意味を持っています。

面白いことに、「絆」という用語は日本語で一般的であるのに対し、漢語ではあまり一般的ではなく、現代社会でポジティブなイメージを持つ「絆」は、おそらく日本語圈で近年になって生まれた意味である可能性があります。例えば、「絆」は漢語では単独の言葉としてあまり使われず、「羈絆」という言葉に翻訳されることが多いです。私の周りの漢人長者に尋ねたところ、彼らはほとんどが「羈絆」という言葉にネガティヴなイメージを持っており、「束縛」や「気に掛かる」という意味であり、例えば死ぬ前に手放せないものを意味すると考えています。しかし、私の周りのオタクたちにとって、「羈絆」は通常、重要な関係を意味し、これはおそらく日本語の影響を受けている可能性があります。

他者/関係志向:論文における「縁関係」と「絆関係」

論文では、「血縁」「地縁」「社縁」「無縁」といった制約的な社会関係や、「結縁」「縁結び」「縁切り」「離縁」といった通過儀礼について議論を通じて、「縁関係」を「集合的なイメージに依存する拡散された社会関係」と記述しています。また、高木、戸口(2006)による「絆」に関する自由記述調査で提供された「相互」「理解」「援助」「受容」「信頼」「思いやり」などのイメージに基づいて、「絆関係」を「感情的な関係や心の投入に依存する密接な相互依存関係」と記述しています。さらに、両者の違いには「大集団」「小集団」の違いもある可能性があります。私は「縁」を冥婚における「集合的な精神的資源」という社会性基盤と見なし、「絆」はFセクな関係における「メディア内で刻まれている社会的なもの」の社会性に関連しています。

「縁」と「絆」の社会性は、一定の程度で「他者志向」や「関係志向」を含んでいますが、その強度や形態は異なる場合があります。たとえば、高木、戸口(2006: 19)は、「絆」の概念が土居健朗が言う「甘え」という心性と関連している可能性があると指摘しています。「甘え」とは、「愛されたいという願望と無力さ(Doi 1963; Doi 1973)」を意味し、この「他者/関係志向」は「縁関係」では見出しにくいですが、「絆関係」では明白です。このように、「Fセクな関係」におけるキャラクターへの「他者志向」は注目すべき点だと考えます。私はさらに推論で、このような「他者/関係志向」が「純粋な関係」の構築に向かうと考えます。つまり、「相互の持続的なつながりから得られるもののために、社会関係がそれ自体のために(for its own sake)入り込む状況(Giddens 1992:58)」です。以上の議論を通じて、私は本論文で「Fセクな絆関係」を探求するためのいくつかの概念ツールを提供しています。

「Fセクな縁関係」再考:自身の経験から

ここからは、以前の論文の議論から離れます。私は「アニメイトな親族・非ヒトな家族」という論文で、基本的に「Fセクな絆関係」に焦点を当て、おそらく「Fセクな縁関係」も存在する可能性を無視していました。または、両方が相反しているのではなく、関係性の中で異なる方法で機能している可能性があります。正確に言えば、私は自分が「パートナー」と呼んでいるキャラクターとの関係が、より「縁関係」に近い可能性があることに気づきました。しかし、私がここで言及している「縁関係」とは、日本社会学文献で使用されている「血縁」「地縁」「社縁」とは異なり、むしろ漢語の日常言語に戻り、「縁」という言葉の意味(おそらく日本語の日常言語にも近い)に重点を置いています。つまり、私は「縁」に対する新しい理解を持つようになりました。

私が「パートナー」と呼んでいるキャラクターとの出会いは特に物凄いことではありませんでした。中学生の頃、初めてそのキャラクターのキャラクターソングを聞いたとき、その作品が何であるかを知りませんでしたが、曲がとても良かったので、その曲を何百回も一日中繰り返し聴いていました。そして、さらに檢索を進めるうちに、そのキャラクターの視覚的なイメージを知ることができました。私はそのキャラクターのビジュアルも好きで、そのメロディーやイメージが私の生活に現れると、とても幸せで癒される気持ちになります。

高校時代から絵を描き始めましたが、最初はあまりそのキャラクターを描きませんでした。私が描くのは、憧れるキャラクターたちばかりでした。大学に入るまで、何年もの低気圧(実際には精神障害)を経験し、その時期には何冊ものスケッチブックを買い、自分が「パートナー」と呼ぶキャラクターでその全ての空白を埋め尽くしました。このような創作実践は、私の生活の中で数少ない癒しの一つでした。私はこのような実践を「アートセラピー」「フロー」「マインドフルネス」といった用語で冗談交じりに呼んでいました。後に正規の薬物治療を受けるようになり、確かに精神状態は安定しましたが、絵を描く意欲を失い始めました。しかし、今でもそのキャラクターに関連する絵や音楽を楽しんでいます。

ある日突然、「もう私から離れようとしている」という感覚がありました。深い悲しみは感じませんでしたが、喪失感はありました。(前提として、それが私たちの関係から自然に消え去るということであり、誰かが意図的に関係を断つことではありません。)もしもそれが私から離れていったら、それを懐かしく思うでしょう。たぶんいつかまた現れるかもしれませんが、それがもう二度と現れなくても、それが私の人生に現れたことを感謝します。それがなければ、私の人生はさまざまな経験や意味を得ることができなかったでしょうし、それは私の人生の道を強く影響しました。

私の一部の研究協力者とは異なり、私はそれに対してそれほど強い「好き」や「愛」、または「甘え」を感じられない。また、さまざまな物質や実践を通じて私たちの密接な絆を維持しようとすることにも取り組んでおらず、それを常に身近に感じさせようと努めたこともありませんでした。私にとって、そのような密接な関係を維持する必要はありません。それは私の人生の中で、繰り返し偶然現れたり、偶然消えたりする状態でした。ある研究協力者の言葉を借りて、私にとって、それは「ポジティブな他者」です。その存在や現れることによって、精神的ベネフィット、悪い状況を改善するためのエネルギーを得ました。しかし、私たちは毎日一緒に過ごす必要はありません。

現在、私はこのような関係を「縁」と呼んでいます。この理解は私たちの日常言語により近いものです。私とそれとの間にはある種の霊的なつながりがあり、言い換えれば私とそれはとても「有縁(縁がある)」のです。だから私たちは初対面から親しく感じ、そして私たちが出会うたびに微妙で繊細な情動が生まれるのです。このつながりの重みが「縁分」というものであり、私たちは「縁尽き」の時が来るかもしれませんが、そのような時はまだ訪れておらず、いつやってくるかもわかりません。「縁」は偶然性に満ちています。このような理解の下では、「縁関係」と「絆関係」は相互に排他的ではなく、両方が同時に存在することがあり、「縁関係」が「絆関係」の基盤となることもあります。

補記:縁について

私は後で、「華人本土心理学派」*1の先駆者である楊國樞(1988)の「中国人の縁の観念と機能」という古い論文を読みました。その中で、彼は「縁」の概念についても自由記述調査を行いました。(論文が初めて発表された1982年と、論文内で言及された「2年前」という時点から判断すると、この調査は1980年に行われたものであると考えられます。)

楊(1988)は、「縁」観念の思想な源泉は仏教の「縁起観」であると述べ、縁観念を一種の宿命論と解釈しました。そして、その宿命論な意味は、「縁の近代化」に伴って次第に消えていくとし、同時にこの近代化の中で、「悪縁」「孽縁」の意味も徐々に消えていき、「縁」という言葉が使われる際には通常、「良縁」「善縁」を指すと述べました(楊1988)。また、「縁」を短期と長期に分け、長期のことを「縁分」と呼び、短期のことを「機縁」と呼びました(楊1988)。また、楊(1988)は興味深い語用についても言及しており、「縁」は「物語」を表現するためにも使用されることがあります。例えば、『鏡花縁』『再生縁』などの小説が挙げられます。私はこの論文を読む前に、これに全く気づいていませんでした。

恐らく私は楊教授とはまったく異なる時代に生きているから、楊教授の多くの推論には躊躇を持っています。例えば、漢語の日常言語での「縁」と仏教の「縁起」の関係についてです。同時に、鳩摩羅什玄奘などがサンスクリット語「प्रतीत्यसमुत्पाद」を漢字「縁起」と訳す前に、漢語で「縁」がある種の関係性を表現するために使われていたかどうかも興味深いです。そして、「宿命論」よりも、「縁」観念や思想を「状況論」と呼ぶ方が適切だと考えます。

私にとって、「縁分」と「機縁」は長期と短期の違いではありません。現象学的な用語で言えば、両者の関係は「事実性」と「自由」であり、これらの結合がいわゆる「状況」を形成しています。私が「宿命論」の説明に疑問を持つ理由は、「縁」と「」の関係を無視しているからです。「業」とは「行動」や「行動の効果」であり、つまり、行動は「縁結び」「縁切り」において不可欠な役割を果たしているからです。

調査データへの内容分析において、楊は1980年の台湾大学生の「縁」観念を以下の3つの主題に区分しました:

第一に、「縁」はある説明不可能な運命、偶然、機会、または力であり、ある種の人間関係を促進することができます。

第二に、「縁」はある主観的な感覚、感情、または「精神感応」であり、調和的で一致した理解のある関係につながる可能性があります。

第三に、「縁」はある調和的で一致した理解のある人間関係である。(楊1988: 139)

この調査結果から、1980年の台湾大学生の中で、「縁」の意味が私が前段で使用した方法に近づいており、また、「宿命論」よりもむしろ「偶然論」に近い可能性があることが示されています。さらに、注目すべきは、楊がここで「人間関係」のみを調査し、または内容分析の過程で非ヒトとの関係を見落とした可能性があることです。「ある神様と縁がある」という表現は、漢語では一般的であり、私の世代でも、台湾では多くの人々が神様や霊や仏菩薩との縁ためにシャーマンや宗教職に就いたり、神様の「養子(契子)」として受け入れられたりすることがありました。しかし、このような事例は楊の調査には登場していません。これは1980年当時の大学生の社会階層の問題が原因である可能性があると思われます。

文献

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*1:現在、多くの人が、早期の「華人本土心理学派」における「華人」や「中国人」の概念化や理論化に問題があると考えています。近年、このような問題は、本土心理学の重要な期刊である『本土心理学研究』において、「脱華化(desinicization)」を通じて再考されています。詳細は、『本土心理学研究(2023)』の第60号「本土心理学を反省する:ジェンダー儒教、権力(反思本土心理学:性別、儒家與權力)」を参照してください。また、華人本土心理学派からは「漢語心理学」と「人文臨床心理学」の学派も派生していますが、私はこれらの方が理論的な枠組みで言えば「華人本土心理学」よりも厳密だと考えています。