ヘンリー・ダーガーは、生前ほとんど知られることのない人物であった。ダーガーは長年、シカゴの貧困地区に暮らし、病院の雑役夫として生計を立てていた。療養施設に入所した後になって初めて、家主はダーガーの住居に驚くほど大量の手稿が残されていることを発見した。これらの遺作によって、ダーガーは代表的な「アウトサイダー・アーティスト」として知られるようになった。この呼称は、一度も芸術制度の内部に参入することなく、長期にわたり持続的な創作を続け、その作品のなかに途方もない規模の世界を構築したことを意味している。
ダーガーが残した作品のなかでもっともよく知られているのが、数千ページにも及ぶ『非現実の王国で』である。この物語は、「ヴィヴィアン・ガールズ」――陰茎を有する少女たち――を中心に展開する。かれらは、子どもを迫害する邪悪な勢力との長い戦争を繰り広げる。ダーガーは新聞や雑誌の切り抜き、広告、塗り絵などの印刷画像を素材とし、水彩画、コラージュ、小説をメディアとして用いながら、トレース、拡大、切り貼り、再構成といった技法によって、同じキャラクターを異なる場面に繰り返し登場させた。
『非現実の王国で』の構成は、物語としての連続性を目標とするものではない。そこには、ダーガーに見られる物語的増殖への衝動が表れている。キャラクター、地名、戦争、宗教、政治勢力、自然現象など、物語を構成する要素は絶えず拡張され、増殖していく。これは、制作コストを考慮する必要のある一般的な商業作品とは異なり、この作品が自己の棲息を可能にするオルタナティヴな現実として成立していることを示している。その世界は、「アウトサイダー・アーティスト」という主体の創作衝動のなかで安定を保ちながら、持続的に自己増殖を続けるのである。
精神科医の斎藤環は、『戦闘美少女の精神分析』において、ダーガーの経験を「オタク」を理解するための典型的な事例として捉えている。すなわち、虚構のキャラクターを現実の人間の代替物として捉えるのではなく、オタクが創作を通じて追求するのは、外部の現実による保証を必要としない自律的な欲望の経済であり、そのような欲望の経済は虚構というメディアを通じて可能となるのである。メディアによって、「非現実の王国」は自律的なオルタナティヴな現実となりうる。この意味において、ダーガーの「虚構への欲望の見当識」は、オタク、あるいは今日私たちがフィクトセクシュアルと呼ぶものへと接続することを可能にする。
ダーガーは公共的なメディアからキャラクターのイメージを切り取り、それらを転写し、新たな物語的景観のなかに配置した。イメージは、もともと属していた三次元的なコンテクストから切り離され、別の世界観のなかへと置かれる。ダーガーの創作過程は、オタクによる二次創作にも類似している。メディアによる育成を通して、メディアと内面との間の心象風景の中にキャラクターが確立され、イメージ、言葉、音、そしてコレクションの創造と読解の繰り返しを通して、キャラクターはそれ自体として存続していく。
トラウマの再現
しかし、斎藤の分析の基礎には問題がある。オタクを「性的倒錯」として分析することを避けるために、斎藤はダーガーを「ひきこもり」として捉え、その結果、ダーガーの性的トラウマや同性愛をめぐる問題を論じることを回避している。さらに、ダーガーの想像力を、社会的孤立ゆえに幼少期から保存されてきたものとして理解している。
しかし、近年の研究は、ダーガーが斎藤の推測するように世間から完全に隔絶されていたわけではないことを示している。トラウマに満ちた幼少期を過ごし、成人後には同性のパートナーと長期にわたる関係を築いていた。また、宗教団体の設立を試みたこともある。さらに、ダーガーは生前すでに自らの小説を他者に読ませており、それらの作品に対して寄せられた批判も、作品の筋書きのなかに反映されている。
『ヘンリー・ダーガー、捨てられた少年』(Henry Darger, Throwaway Boy: The Tragic Life of an Outsider Artist)の考察によれば、ダーガーの幼少期は喪失に満ちていた。母親は幼い頃に亡くなり、家族は妹を養育することができず、妹を手放さざるをえなかった。父親にも、子どもを十分に世話し、ケアを与える能力はなかった。母親の死、妹との離別、そして父親の衰弱によって、ダーガーは生まれ育った家族とのつながりを失っていった。十二歳のとき、ダーガーはオナニーの問題を理由として「リンカーン知的障害児療養院」へ送られ、そこで隔離された。そしてその施設のなかで、ダーガーは繰り返される虐待、搾取、暴力にさらされることとなった。
療養院において、ダーガーは何度も逃亡を試みたが、そのたびに追跡され、拘束され、監禁され、再び施設へと連れ戻された。この経験は、『非現実の王国で』に頻繁に現れる絞殺や捕獲のイメージと対応している。この意味において、ダーガーの創作衝動をトラウマと無関係なものとして捉えることはできない。ただし、ここで苦痛を引き受けるのは、もはや現実世界に存在するこの「私」ではなく、「非現実の王国」に生きる虚構のキャラクターたちである。ヴィヴィアン・ガールズにおける「不死の身体」と「死にゆく身体」とのあいだの弁証法的緊張は、トラウマを変容させる可能性をもたらすと同時に、虚構のキャラクターが果たしてダーガー自身の傷ついた身体なのか、それとも欲望の対象なのかという問いを、あらためて問題化する。
宗教的イメージもまた、見過ごすことのできない要素である。カトリック的な背景のもと、ダーガーは長年にわたってミサや祈り、その他の独自の宗教的儀礼に参加していた。神に繰り返し願いを捧げながら、そのたびに失望を経験していた。こうした経験と結びつくように、ダーガーの作品には、聖人、天使、殉教、神聖な審判といった宗教的イメージがあふれている。これらのイメージのなかで、ヴィヴィアン・ガールズの受傷は殉教にも似た神聖性を与えられ、ダーガー自身のトラウマや無力感に対して、一種の救済をもたらすものとなっている。
こうしてトラウマの問題は、再び議論の視野に入ってくる。しかし、それでもなお、トラウマを決定的な要因として捉えることは避けなければならない。ダーガーを単純な「被害者」として説明することはできない。それは、「男性同性愛」という単一の概念だけでは、ダーガーの特異な想像力を説明することができないのと同様である。ダーガーによるメディアの流用こそが、想像力を支える基盤を形成している。「非現実の王国」はトラウマから完全に隔絶されたものではないが、同時にトラウマによって完全に決定されているわけでもない。それは、トラウマがメディア、物語、イメージを経由して翻訳されることによって獲得した、別の形態なのである。
「死にゆく身体」と「不死の身体」とのあいだに生じる弁証法的緊張と同様に、ヴィヴィアン・ガールズは暴力を受けながらも戦う位置を占め、救済されるべき存在であると同時に世界を救う存在でもある。被害と抵抗、喪失と親密さ、罪責と救済、怒りと祈願――これらは、「非現実の王国」というメディア的宇宙のなかに配置される。トラウマは想像力の内部へと入り込み、戦争、怪物、天使、そして陰茎をもつ少女へと書き換えられる。それはもはや元の姿を保つことなく、他の素材と絶えず混ざり合い続ける。
ダーガーはトラウマを現実世界のなかに隔離したわけでもなく、自らの存在を完全にトラウマへ委ねたわけでもない。むしろそれらに新たなメディア、新たな身体を与え、それらを新たなキャラクターや新たな場面として絶えず増殖させていく。「非現実の王国」は、まさにこのような絶え間ない翻訳の過程において、生命経験を包摂しながらも、決して生命経験そのものと完全には重なり合うことのない世界となるのである。
サントームとしての生存戦略
トラウマをあらためて分析のなかに導入しながらも、「非現実の王国」の意味をそのトラウマによって独占させないために、私は別の視点を提示したい。オタクの虚構への見当識が、単なる「現実逃避」にとどまらないのだとすれば、それはいったい何なのだろうか。斎藤環は、それを一種の「生存戦略」と呼んでいる。
ラカン派精神分析において、トラウマとは意味の秩序に対する衝撃であり、記号化することが困難で、象徴的な資源によって十分に位置づけることのできない経験である。ダーガーの混乱した家族構造、欠如したケア、そして幼少期を満たしていた数々の重大な喪失は、たしかにトラウマとして記述することができる。しかし重要なのは、ダーガーが暴力の経験を意味の秩序のなかに組み込むための十分な象徴的支えを欠いていたとき、いかなる仕方で生き延びたのかという点である。
ラカンにとって、「父の名」(Nom-du-Père)とは、主体が象徴界へと参入し、母子の連続体から分離され、言語と社会的な位置を引き受けることを可能にする基本的なシニフィアンである。そして、「父の名」が象徴界に取り込まれず、「排除」(forclusion)された場合、主体は現実との結びつきを失い、精神病(psychosis)の状態へと陥るとされる。しかし、ダーガーの家族的な秩序の崩壊は、必ずしも精神的な失調へと陥らせたわけではない。ダーガーは強烈な創作衝動と、絶えず増殖し続けるメディア的宇宙によって生き延びたのである。
「非現実の王国」は、複雑かつ巨大な想像世界であり、ダーガーによる数十年にわたる執筆と絵画制作を通じて絶えず増殖し、それ自体の規則性を形成していった。後期ラカンの観点からすれば、創作とは単に主体の内的世界を表現するものではなく、主体そのものに対して構造化する効果をもつ。書くこと、トレースすること、コラージュすること、名づけることを反復することによって、本来であれば緩みうる想像界・象徴界・現実界という三つの環からなるトポロジー的構造は、「サントーム」(sinthome)と呼ばれる第四の環を通じて結びつけられる。このとき主体は、「常態精神病(ordinary psychosis)」として、その存続を維持することが可能になる。
斎藤は、ダーガーの創作に登場するヴィヴィアン・ガールズを見たうえで、「ファリック・ガールズ」というイメージを提示し、それによって戦闘美少女の文化を理解しようとした。ファリック・ガールズとは、一つの主体でもなければ、単なる客体でもない。それはむしろ、「戦う」という症状的実践そのものである。この意味において、ヴィヴィアン・ガールズは、単にダーガー自身の傷ついた身体でもなければ、単に欲望の対象でもない。むしろそれは、ダーガーの「症状」――すなわち「聖状=サントーム」なのである。
サントームという概念は、いわゆるファリック・ガールズを理解するための別の経路も提供する。斎藤はダーガーやオタクを「常態精神病」という枠組みのなかに置くことはせず、むしろ「反転したヒステリー」という理解の道筋を切り開いた。「現実」におけるヒステリーが、自らの性別について終わりなく問い続けるものであるとすれば、「反転した」ヒステリーは、虚構のなかで性別=症状を問いながら、同時に自らのセクシュアリティをも問い直す。斎藤の論理をさらに推し進めるならば、反転したヒステリーの主体が問いかけているのは、自らの性別的位置だけではない。それは同時に、症状としての性別そのものを問いに付しているのである。
この点において、ファリック・ガールズとサントームには共通性がある。なぜなら、ラカンは次のように述べているからである。「別の性を支えるもの、それこそがサントームである。さらに言えば、サントームとは、私が属していない性、すなわち『一人の女』なのである。」
しかし、斎藤が指摘するように、ファリック・ガールズは、ファルスの「空虚さ」、すなわちその非機能性によって特徴づけられる。それは既存の性別秩序から切り離され、少女の身体の上に配置される。「父の名」が象徴秩序を通じて性別的位置を確立するのに対し、サントームとしてのファリック・ガールズは、その位置に対して特異な処理を施す。それは性機能を指し示すものではなく、生殖や成熟、家父長的な位置を約束するものでもない。それゆえ、性差を単純な二項対立や相補性として配置することを不可能にするのである。
ダーガーの創作において、サントームは反復的な実践を通じて作り出される一つの「結び目」として理解することができる。トラウマ、ジェンダー、戦い、そして虚構は、このイメージのなかで互いに結びつけられる。サントームは構造上の問題に対する補綴であり、その補綴としてのファリック・ガールズは、「もう一つの性」である少女と、その身体に存在する陰茎とのあいだの矛盾を解消するものではない。むしろ、それまで相互に衝突していた要素を共存させながら、同時にそれらを互いへと還元することを不可能にするのである。ファリック・ガールズはトラウマを負った身体性を保存しつつ、そのトラウマによって自らの存在が決定されることを拒む。その矛盾的なあり方によって、「被害者」と「戦闘者」はもはや相互に排他的な位置ではなくなる。
おそらく、こうした還元不可能性こそがファリック・ガールズの機能なのである。サントームは「父の名」とは異なり、主体に調和的で完全な位置へと参入することを要求しない。それは、たとえ奇妙で、特異で、説明しがたい仕方によるものであっても、独自の結び目が存在することを許容する。サントームを通じて、ダーガーは「私はどの性別に属するのか」という問いに答えることなく、主体としての存続を維持することができる。そしてまさに、その位置が固定されないからこそ、ファリック・ガールズは絶えず増殖し続けることができるのである。
ダーガーの想像力
斎藤は「多重見当識」という概念を用いて、オタクにおける虚構経験を理解しようとした。この概念をダーガーのライフヒストリーのなかに置き直してみると、そこにはまた別の意味が浮かび上がる。ダーガーは長期にわたって「非現実の王国」に没入していたにもかかわらず、シカゴにおける自らの生活から退出したわけではない。仕事を続け、パートナーとの関係を維持し、宗教生活にも参加する一方で、数十年にわたって、もう一つの極めて巨大な虚構世界を営み続けていたのである。
しかし、多重見当識は単純な「二重生活」とは異なる。二つの次元は完全に隔絶されているわけでもなく、また一方を他方へと任意に還元することもできない。ダーガーは現実世界から画像素材、ニュース情報、宗教的イメージ、日常的な経験を取り込み、それらを虚構世界におけるキャラクターや世界へと翻訳していく。そしてその虚構世界は逆に、ダーガーが現実に対して抱く感情や関心を組織していく。虚構と現実のあいだには無数のメディア的な通路が存在する一方で、両者は異なる存在様態と存在論的次元を保持しているのである。
斎藤はさらに、「直観像」という概念によって、ダーガーの作品における生気を捉えようとする。直観像とは、特殊な臨在感を示す心象経験である。虚構の対象は現実の肉体として現れることなく、虚構の風景も現実の空間として現れることはない。それにもかかわらず、それらは具体的で、把握可能な様態として経験される。虚構のキャラクターは文字や画像のなかに存在するが、単に作者による操作を待つ受動的な客体なのではない。ダーガーはかれらを書き続け、見つめ続け、異なる場面やコンテクストのなかでかれらを変化させ続けなければならない。そうすることで、自己とキャラクターとの関係に生気を保ち続けるのである。一言で言えば、これは「生気を与えること」(animation)である。
この文脈において、ヴィンセント・クラパンザーノの「想像力の地平」(imaginative horizon)という概念は、重要な切り口を提供する。クラパンザーノは、境界(boundary)と地平(horizon)を区別する。前者は越えることができるが、視点が地平線へ向かって進むと、地平線もまた後退していく。この意味において、地平線というイメージは想像力の性質を示している。想像力はつねにある「彼岸」を指し示すが、その「彼岸」は決して到達することができない。
この到達不可能性こそが、想像力の地平の効力なのである。クラパンザーノは想像力についてのサルトルの議論を参照し、想像的対象としての彼岸には、ある種の「非存在」の性質があると指摘する。それは不在であり、到達不可能である。しかし、その不在は逆に、私たちが知覚世界を理解する仕方に参与する。したがってクラパンザーノは、想像力の地平を「存在論的登録の変換」として記述する。私たちが地平線に向き合うとき、そこで遭遇するのは単なる別の場所ではなく、「いま・ここ」における存在そのものの変化なのである。
この意味において、「次元の壁」は一つの境界ではない。ダーガーの創作は、現実から別の次元へと越境し、そのまま永続的に幻想世界へ入っていくというものではない。この地平線への問いかけを通じて、「いま・ここ」と持続的に交渉する実践なのである。地平の臨在は、それが同一の存在論的次元に位置することを要求しない。もう一つ性別としてのヴィヴィアン・ガールズは、極めて具体的で生き生きとした存在である。しかし、かれらの臨在は、生物学的な身体、法的人格、あるいは物理的な同席によって証明される必要はない。かれらは別の存在論的登録に位置しており、創作活動こそが、その登録を維持するための方法なのである。
日常生活における視覚的な素材は「非現実の王国」へと持ち込まれる。しかし、いったんそこに入ると、それらはもはやもともとの現実の対象ではなくなる。そして、この変換を境界を越えて物を運ぶような移動として理解することはできない。イメージがメディアのなかで移置されると同時に、そこでは存在論的な変換も生じている。それは別の世界のなかに置かれ、そこから「いま・ここ」と新たな関係を結ぶのである。したがって、虚構のキャラクターの存在様態は、その起源によって完全に決定されるものではなく、メディア的な変換と生命を与える相互作用のなかで持続的に生成されていく。
「想像力の地平」という概念は、したがって、今日私たちが「フィクトセクシュアル」と呼ぶものについて、別の見方を提供する。「次元の壁」という概念を素朴に理解することによって、「次元を越えること」がフィクトセクシュアルを理解するための主流の物語となっている。しかし、反転したヒステリーや常態精神病の観点からフィクトセクシュアルを理解するならば、虚構の対象はつねに触れることのできないものであり、その到達不可能性こそが、この関係を成立させる条件なのである。
「地平」と「彼岸」というイメージは、このようなフィクトセクシュアルな関係における距離感をとりわけ正確に説明する。そこでは、虚構のキャラクターは、主体と同じ存在論的次元の世界へと決して入ることができない。主体は創作によってキャラクターに生気を与える。しかし、キャラクターはなお到達不可能性を保持している。この距離感は欠陥ではない。地平線が到達不可能であるからこそ、持続的に視野の方向となりうるように、虚構のキャラクターもまた、決して所有することができないからこそ、多重見当識における遠隔的な対象となりうるのである。
したがって、「非現実の王国」は決して完成することができない。なぜなら、それが閉じられ、固定され、到達可能な世界となったならば、それはもはや彼岸としての性質を持たなくなるからである。ダーガーはキャラクターを絶えず増やし、戦争を引き延ばし、地理を拡張し続けなければならない。この物語の遅延と延長は、想像力の地平が持つ持続的な開放性と結びついている。物語が絶えず前方へと移動し続けるのは、まさに彼岸を真に固定することができず、地平線を完全に閉じることができないからである。
この意味において、フィクトセクシュアルは、彼岸へ、地平へと向かう関係として理解することができる。それは虚構と現実とのあいだの差異を越えることを要求せず、キャラクターの到達不可能性を消去することを目的ともしない。フィクトセクシュアルな関係は、まさにこの距離のなかで生じるのである。視野はキャラクターへと向けられる。それは、絶えず後退していく地平線へと視線を向けることに似ている。キャラクターは決して現実の人間的な他者になることはない。しかし、それでもなお、彼岸と「いま・ここ」とのあいだにおける感覚、行為、世界観を持続的に形づくっていく。
ダーガーの生涯は、一つの存在論的な持続的交渉として理解することができる。此岸を離れたわけでもなく、彼岸へと真に到達したわけでもない。此岸と彼岸によって形成される視野のなかに生きていたのである。まさにこの遠い距離において、「非現実の王国」は絶えず拡張し、ヴィヴィアン・ガールズは存在し続け、そして想像力は世界を組み替える実践となるのである。





